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石川達三著『金環蝕』

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    石川達三著『金環蝕』(岩波現代文庫 2000年)

     

     いまさら石川達三と云っても知らない人が多いと思いますが、作家でブラジル移民集団の姿を描いた『蒼氓』で、1935年に第1回芥川賞を受賞しています。『金環蝕』は自民党政権下での九頭竜川ダム汚職事件をモデルとして、1966年に新潮社より出版され、映画化もされ当時はかなりの話題となりました。

     今、「森友」に対して破格に割安・好条件で国有地払下げをしたのではという追及に端を発した、安倍明恵総理大臣夫人の行動が話題となっています。また、歴代の総理夫人はこのような行動をしていなかったとも言われています。しかしながら、この『金環食』に書かれていることをモデルのある小説として読めば、歴代の総理夫人が全く政治に関与しなかったとは言い切れません。むしろ陰に回って、もっと悪質だったのかもしれません。

     以下『金環蝕』の「首相夫人の名刺」からの引用です。内閣官房長官の秘書の西尾秘書官と電力建設会社総裁の財部総裁とのやり取りです。電力建設会社は政府の付属で、F−川電源開発を担当する建設会社を選ぶ立場にあります。

     

     見ていると西尾秘書官は、用件を記した便箋を丁寧に四つ折りにして封筒に収め、それを内ポケットに入れた。口頭で用向きを伝えたが、財部総裁の手もとに証拠の紙片を残さないように、用心しているのかと思われた。西尾秘書官は、今度は別のポケットから紙入れを取出し、それを総裁の前に押しやりながら、「それから、これを総裁にお渡しするようとのことでした」と言った。

     財部が受け取ってみると、中に名刺が一枚入っていた。「竹田建設のこと、私からもよろしくお願い申し上げます」と書いてあり、印刷した名前は寺田峯子とあった。

     それを見ると総裁はかっと頭に血が登って来るような感じがした。寺田峯子とは、寺田総理大臣の夫人である。あの出しゃ張り女がこんなところまで口を出して来たかと思うと、財部はむらむらと腹が立った。通産大臣の信任を受けて電力建設会社の総裁となったからには、会社の業務に関する限りは何人の溶解をも許すべき筋合いはないのだ。Fー川電源開発は財部総裁の責任において建設される。そこの工事をどこの建設会社にやらせようが、外部から口出しをされる理由はどこにもないのだ。官房長官と云えども発言権はない。いわんや総理夫人などという局外者が、どんな権限を持って総裁に命令をするというのか。

     名刺には、「宜しくお願い申し上げます」と書いてあったが、財部の感情では、これは命令と受け取っていた。それだけ総理夫人という立場は強力であった。この女は官職も何も有るわけではないが、寺田総理と結婚している女であるが故に、世間は彼女の発言に譲歩する。その譲歩を計算に入れて、こうした名刺をよこしたに違いないのだ。

     「総理夫人はたびたび、こういう事をなさいますか」財部は西尾秘書官に聞いた。

    「ときどきご自分の名刺を持っていかせるという事は、あるようです。私はあまり知りませんが、たしか防衛庁長官宛にも名刺をお出だしになりました。軍需物質の納入について、宜しく頼むという様な主旨でした。総理のご郷里の商社の人から頼まれたようです。」

    総理夫人の名刺は、防衛庁長官と云えども無視するわけにはいかない。従って紹介をもらった商社から何千万、あるいは何億という献金が、献金という名の賄賂が、寺田総理に贈られたと思われる。それが総理大臣夫人の内助の功であったのだ。

    多分、星野官房長官は自分の思い付きで、総理夫人寺田峯子に会って事情を訴え、「またひとつ、名刺を書いてくださいませんか」と頼んだことだろう。何億という政治献金と結びついていると聞かされ、夫人は夫の急場を助けるために、いつものように名刺を書いたに違いない。

     

    ■同じく『金環蝕』の「一人の犠牲者」からの引用です。総理夫人と西尾秘書官とのやり取りです。

     「あなたは8月の初めに、星野官房長官のお使いで、電力建設の財部総裁に会いに行って下すったでしょう」夫人はたたみかけて来るような言い方をした。「行って下すったわね」

    「はい・・・参りました」

    「そのとき、総裁宛の私の名刺を持って行ってくださいましたね」

    「はい」

    「その事が、もし世間に知れわたったりしたら、私が非難されるばかりではなくて、総理の政治的生命にもかかわる問題だということも、お分かりの筈ですね」

    「はい」

    「それだけ解かっていらっしゃるのに、なぜあなたはあの事を世間に言いふらしたりなさったの」

    「いいえ、僕は言いふらしたりなんかしていません」

       中略

    「弁解したって駄目よ。あなたは私の顔に泥を塗って下すったのね。私だけなら我慢もします。総理の名誉は完全に傷つけられました。もしこの噂が広まって、新聞が書き立てたり、野党の方が国会で質問を提出したりしたら、あなたの責任はどういうことになるの。・・・西尾さん、どうなさるおつもり」

    「私は人事に口出しなんか致しませんからね。あなたにどうしろという事は申しませんよ。あなたご自分でお考えになって、一番適当な方法をお取りになることですわね。」

    ■結局、西尾秘書官は自殺することになります。 

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:22 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

    『中庸』、パスカル『パンセ』、『アリストテレス倫理学入門』

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      宇野哲人 全訳注『中庸』(講談社学術文庫)

      J・O・アームソン『アリストテレス倫理学入門』(岩波現代文庫)

      世界文学全集11『パスカル・モンテーニュ』(筑摩書房)

       

       現在では、世界中で過激な発言、行動、思考がまかり通って敵対的な対立を生み出し、それを阻止しようとする側でも同じように過激な行動に走っています。今必要なのは「寛容」とか「中庸」であると言われながらも、すべての人がそのような気になるのはほとんど不可能なことのようです。

       東西を問わず、古の哲人たちは「中庸」の必要性を語っていますが、人間はそれに耳を貸そうとしません。「中庸」に関する言葉を幾つか紹介したいと思います。

      先ずは、文字通り『中庸』です。中国古代では四書五経の『大学』『中庸』『論語』『孟子』に入っているほど学問をする上では重要な書籍として扱われてきました。以下は『中庸』からの抜粋です。

       「偏(かたよ)らざるをこれ中と謂い、易(か)わらざるをこれ庸と謂う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。」

       「君子は中庸をす。小人は中庸に反す。君子の中庸は、君子にして時に中す。小人の中庸は、小人にして忌憚なきなり。」

       

      次は『アリストテレス倫理学入門』からの引用です。中庸に関しては主にアリストテレス『ニコマコス倫理学』では第二巻で触れられています。

       中庸の理論の中心思想は次の通りである。優れた性格とはそれぞれの状況に応じて、その状況にとって最適な程度に情動を感じたり表したりする気質であり、このような気質は、情動の感じ方、表わし方が超過することと不足することとの間に位置する。中庸においては、人は各情動を適切な時に、頻繁に過ぎることもなく間遠に過ぎることもなく、適切な事象に対し、適切な人々に向かい、適切な理由を持ち、適切な方法によって感じを表わす。

      超過の誤りは、時を選ばず、不適切な状況において、正しい理由もなく、不適切な方法で情動を感じ表わすことである。不足の誤りも同様に述べることができる。

       超過と不足を簡単に言うと、「多すぎる」と「少なすぎる」になる。このために多分多くの読者が、中庸の理論を、あらゆる場合に情動と行動の極端を避けるべきだという「適度の理論」と見做してしまったのであろう。しかし『ニコマコス倫理学』の幾つかの箇所から、この解釈が誤りであることが分かる。たとえば、「恐怖、自信、欲望、怒り、憐れみ等々の快不快は、感じすぎろこともあれば、感じなさすぎることもあり、その両方ともよくない。これらの快不快を、適切な時に、適切な事物に対し、適切な人々に向かい、適切な動機により、適切な方法で感じることが、中庸であると同時に最善であり、これを優れた性格という」

       

      最後に、パスカルの『パンセ』(松浪信三郎訳)378より引用します。

       極端な精神は、極端な精神喪失と同様に、狂愚として非難される。中庸以外には何も良いものはない。そのことを決めたのは多数の人々である。人々は、どちらの端を通ってにせよ、中庸から抜け出る者を悪く言う。私は必ずしも中庸に固執しはしないが、そこに置かれることに同意する。私は下の方の端に置かれることを拒絶する。それは、そこが下の方であるからではなく、そこが端であるからである。なぜなら、私は上の方の端に置かれることも、やはり拒絶するであろう。中間から逸脱することは、人間性から逸脱することである。人間の魂の偉大さは、いかにして中間に身を持するかを知る点にある。偉大さは中間から逸脱することにあるどころか、むしろそこから逸脱しないことにある。

      shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:13 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

      吉本隆明『宮沢賢治の世界』 ほか

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        吉本隆明『宮沢賢治の世界』(筑摩書房 2012年)

        河合隼雄『猫だましい』(新潮社 2000年)

        高橋源一郎『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』(集英社 2005年)

         

         NHKEテレの『100分de名著』の3月分放送は「宮沢賢治」でした。

        宮沢賢治と云えば『春と修羅』等の詩人であり、『銀河鉄道の夜』等の童話の作家で、日本では子供から大人まで幅広く親しまれています。しかしながら、一方では宮沢賢治に関する批評・評論・解説本はいずれも難解でわかりにくいものが多いようです。詩も童話もメタファー(隠喩)であり、老若男女を問わず読者一人ひとりが、それぞれの置かれた状況で如何様にも解釈することができる魅力を備えていることが、親しまれるながらも難解なこととに通じているのかもしれません。

         ここに取り上げた本は、その中ではとても分かりやすく楽しく宮沢賢治の魅力が語られています。先ずは、河合隼雄著『猫だましい』からの引用です。

         山折哲雄さんが、小学校6年生に対して、宮沢賢治についての授業をした。山折さんは賢治の3つの作品『風の又三郎』、『注文の多い料理店』、『銀河鉄道の夜』を示し、「これらには、共通する問題が出てくるです。なんだと思う?」と子供たちに問いかける。そして、「それはね、風がものすごく大切な役割を果たしているということ。この3つの童話の中心的な大問題は風だということです」と自ら答え、賢治の作品のなかの風の重要性を明らかにしていく。実の賢治の本質をついた授業である。

         この授業を受けた子どものなかに、「それは猫だ」と言おうと思ったが山折先生が「風」と言ってしまったので。あれっと思った。そうかなと思ったが、先生の話を聞いているうちに、やっぱり「風」と思った、ということです。

         猫のイメージと風のイメージが、私(河合)の心の中で重なるのを感じたのである。

        普通だと、猫と風は全く別種と感じられるかも知れない。違うと言えばまったく違ったものである。しかし、風の掴まえどころのなさ、いったいどこから来てどこへ行くのかわからない、優しくもあれば荒々しくもある、少しの隙間からでも入り込んで来る、などという性質は、猫にもそのまま当てはまることだし、賢治の作品の猫たちは、まさにそのような性格を持って登場してくるように思うのである。

         

         次に、吉本隆明著『宮沢賢治の世界』の9章「いじめと宮沢賢治」からの引用です。

         宮沢賢治という人の童話は、ある意味ではほとんど全部がいじめ問題じゃないかということです。それで、いじめ問題ということで、ちょとと絡めて賢治の作品を読みました。すると、いくつかの思いがけないいじめ問題についての考えが宮沢賢治にあるわけです。他のいじめ問題の専門家のような人や、いまのいじめ問題でいろいろと言われている考え方とものすごく違っているところがひとつあります。それは何かと云えば、いじめる方については、あまり何かを云ってないんですが、いじめられる方の人間といいますか、子どもは、要するに、”聖”だと言っていると思います。”聖”というのはつまりセイントといいますか、つまり非常に尊い人だ、尊いものだ、ということを、賢治は言っているように思えます。

        いじめられるほうが偉いのだというと、ちょっと違いますが、人間として純粋とか、人間以上の何かを持っているんだと言っていると思います。つまり”聖”だと言っている。

         宮沢さんの童話を、何か特定の主題と結びつけて論ずるのは、本当は違うような気がしますけれども、しかし、宮沢さんの童話のなかには、今日の主題のように、いじめにもし普遍性があるとすれば、普遍的な意味でのいじめを主題にした文学だと思います。

         

         最後に、高橋源一郎著『ミヤザワケンジ・グレーテストヒット』について。

         この本は宮沢賢治の童話を題した24作品が収録されている短編集です。宮沢賢治のトリビュートであると言われていますが、私の読後感としては、その内容からは宮沢賢治に対するオマージュ(尊敬・賛辞)であるとは思えません。しかしながら、2006年に「第16回宮沢賢治賞」を受賞しているということは、それなりの評価を受けているということなのでしょう。

        shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:20 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

        河合隼雄『昔話と日本人の心』・『猫だましい』

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          河合隼雄著『昔話と日本人の心』(岩波書店 1982年)

               『猫だましい』(新潮社 2000年)

           

           このブログで何回か前に河合隼雄の『影の現象学』と『昔話の深層』を取り上げました。この2冊はどちらかと云えば外国の小説や童話・昔話を、特に『昔話の深層』では副題に「ユング心理学とグリム童話」とあるように「グリム童話」を読み込みながら、ユング心理学による分析で解説しています。この2冊を読むと、多くの作家の作品が神話・説話・昔話・童話を何らかの形で影響を受けているのではないかと思われます。

           『昔話と日本人の心』の「あとがき」で以下のように語っています。

          昭和52年に『昔話の深層』を出版すると予想外大きい反響があった。この本は昔話に対するユング派の考えを紹介、解説することを目的として書いたので、わが国でよく知られているグリム童話を取り上げ、それを素材として説明をこころみたものである。したがって、その「あとがき」にも記しておいたとおり、自ら日本人として日本の昔話を分析することを是非やってみたいし、やらなければならないと感じていた。

           日本の昔話について全体として筋の通った見方をすることは、最初のうちはほとんど不可能なことのように思えた。何度も何度も昔話を読んでいるうちに本書に示すように「女性像」に注目することによって筆者なりに筋を通すことができた。もちろんこれはひとつの筋であり、また異なった観点から異なった筋道を見出すことも可能であろう。

           

           『猫だましい』で河合隼雄が取り上げた作品は、神話・小説・昔話・童話、そして内外の作品と、猫を主題として取り上げているという以外はまさに多様であります。猫好きではない私でも、ここで取り上げユング心理学による解説・分析を読んでいると興味が湧いてその作品自体を読んでみたくなります。著者も本のなかでこのよう書いています。

           ある程度は筋を紹介しながら、自分の考えを述べていくより仕方がないのだが、これもあまりやり過ぎると、読者もその原作を読み直そうとする興味を失ってしまうかもしれない。そもそも、このような文章を書いて、一番嬉しいのは、これを読んだので、原作が読みたくなって読んだ、といわれることである。

          この本で取り上げた作品をここで紹介します。

           ホフマン『牡猫ムルの人生観』、ペロー『長靴をはいた猫』、ル=グウイン『空飛び猫』、『日本の昔話のなかの猫』、『宮沢健治の作品に出てくる猫』、『怪猫=鍋島猫騒動』、佐野洋子『百万回生きたねこ』、ワンダ・ガアグ『100まんびきのねこ』、ポール・ギャリコ『トマシーナ』、谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』、少女マンガの猫として大島弓子『綿の国星』、コレット『牝猫』

           

          以下に、『猫だましい』の第1章「なぜ猫なのか」から引用します。

           犬よりは猫の方が、「たましいの不可解さ」、とらえどころのなさをはるかに感じさせるように思われる。

           この科学技術の発展した時代にどうして「たましい」などということを話したがるのかについて、初めに少し触れておきたい。私は心理療法家という仕事をしていて、多くの人の悩みの相談を受けながら、それらの悩みに共通する問題があるように感じていた。それを私なりの言葉で表現すると、「関係性の喪失」ということになる。関係といわず、わざわざ関係性と言うのは、親子関係、師弟関係、医者・患者関係などと「関係」という言葉によって表されながら、そこにほんとうに感じられる感じられる関係として実感されることを示したいと思うからである。

           近代はものごとを割り切って考えることによって、ずいぶんと生活の便利さを獲得するようになった。しかし、その分だけ「関係性の喪失」に悩まなければならなくなった。あらゆるところで、人間関係の希薄化を嘆く声が聞こえてくる。それはすなわち、「たましいの喪失」である。

           猫を「たましいの顕現」と呼びたいほどに感じる時もある。「たましい」はそれ自体取り出すことはできない。しかし、そのはたらきはいろいろと人間の五官に感じられる存在として示される。猫はそれらのなかでも、相当に「たましい」に関連付けられやすい生き物なのである。

          shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:01 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

          夏目漱石『漱石 傑作講演集』・『漱石 人生論集』

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            夏目漱石『漱石 傑作講演集』(ランダムハウス講談社 2007年)

                『漱石 人生論集』(講談社文芸文庫 2014年)

             

             日本人なら誰でも知っている文学者と云えばやはり夏目漱石だと思いますが、誕生が1867年2月9日で、亡くなったのが1916年12月9日、享年50歳と意外に短い一生です。2016年が生誕150年、2017年が没後100年で、昨年から今年にかけて夏目漱石の作品が新たに出版されたりして何かと話題も多いようです。

             私も漱石の作品で読んだと言えば、確かな記憶では『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『草枕』『こころ』ぐらいいですが、高校の国語の時間に夏目漱石といえば「則天去私」「惻隠の情」と教わったことは今でも覚えています。

             『漱石 傑作講演集』も『漱石 人生論集』も、小説とは違った面白さがありますが、最初に『傑作講演集』の目次を紹介しますと、「道楽と職業」「現代日本の開化」「中味と形式」「文芸と道徳」「文芸と哲学的基礎」「模倣と独立」「おはなし」「私の個人主義」の8編で、今回は、「文芸と哲学的基礎」から引用します。

             

             ここいらで前段で述べた事を総括しておいて、それから先へ進行しようと思います。(1)吾々は生きたいという念々に支配せられております。意識の方から云うと、意識には連続的傾向がある。(2)この傾向が選択を生じる。(3)選択が理想を孕む。(4)次にこの理想を実現して意識が特殊なる連続的方向を取る。(5)その結果として意識が分化する。明瞭になる、統一せられる。(6)一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。(7)一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える。(8)時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。(9)時間内に起こる一定の連続を統一して因果の名を附して、因果の法則を抽象する。

             まずざっと、こんなものであります。してみると空間というものも時間というものも因果の法則というものも、皆便宜上の仮定であって、真実の存在しているものではない。これは私がそう云うのです。諸君がそうでないと云えばそれでもよい。ご随意である。とにかく今日だけはそう仮定したいしたいものだと思います。そうでないと話が進行しません。

            なぜこんな余計な仮定をして平気でいるかというと、そこが人間の下司な了簡で、我々はただ生きたい生きたいとのみ考えている。生きさえすればどんな嘘でも吐く。どんな間違いでも構わずに遂行する。真にあさましいものどもでありますから、空間があるとしないとしないと生活上不便だと思うと、すぐに空間を捏造してしまう。時間がないと不都合だと勘付くと、よろしい、それじゃ時間を製造してやろうと、すぐ時間を製造してしまいます。だからいろいろな抽象や種々な仮定やは、みな背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります。そうして嘘からでた真実であります。

             

             我に対する物を空間に放射して、分化作用でこれを精細に区別していくます。同時に我に対しても亦同様の分化作用を発展させて、身体と精神とを区別する。その精神作用を知、情、意の三つに区分します。それからこの知を割り、情を割り、その作用の特性によってまたいろいろに識別していきます。この方面は主として心理学者が専門として担当しているから、これらの人に聞くのが一番わかりやすい。もっとも心理学者のやることは心の作用を分解して抽象してしまう弊がある。知情意は当を得た分類かも知れないが、三つの作用が各独立して、他と交渉なく働いているものではありません。心の作用はどんなに立ち入って細かい点に至っても、これを全体として見るとやはり知情意の三つを含んでいる場合が多い。だからこの三つを截然と区分するのは全く便宜上の抽象である。この抽象法を用いないで、しかも極度の分化作用になる微細なる心の働きを全体として写して人に示すのはおもに文学者がやっている。

             

            shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:14 * comments(0) * trackbacks(0) * - -
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