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ポール・ヴァレリー著『精神の危機』

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    ポール・ヴァレリー著『精神の危機』(岩波文庫 2010年5月)

     

    「中庸」に関するポール・ヴァレリーの言葉をここで引用します。

      「思考は極端なるものによってのみ進むが、

        しかし、中庸なるものによってのみ存続する。」

     

     ポール・ヴァレリー著『精神の危機』については、このブログで何回も紹介しています。日本の政治状況の危うさや、世界的な政治危機なかで、読み返しているとまた新たに感じるところもあり、今回は『精神の危機』の「独裁という観念」から以下に引用します。

     

     実践的な政治について、私はほとんど何も知らない。思うに、そこには、私の忌避するものばかりがあるような気がする。それはこの上なく不純な世界に違いない。すなわち、私が一緒にしたくないと思っているものがこの上なく混同されている世界、例えば、獣性と形而上学、力と権利、信仰と利害、現実的なものと演劇的なもの、本能と観念などが混同されている世界である・・・・・。

     

     ここでは、私は読者を前に「独裁」というものがどのようにして発生するかという問題を一考するにとどめたい。

     あらゆる社会システムは多少なりとも自然に反するのである。自然は、刻々、自分の権利を取り戻そうとする。生者、個人、傾向は、それぞれの仕方で、強力な抽象概念装置、法と儀式の網目、一つの組織化された社会を定義する慣習や決め事の体系を乱し、解体しようとする。様々な人々、利益団体、党派や政党は、それぞれの必要と才覚によって、国家の命令や実質を浸食し、解体する。

     考えられるあらゆる政体の下で必ず存在する、存在せずにはいられない濫用・誤用・故障が社会理念の生命原則(すなわち社会理念の信頼度とその力の優位性に対する信念)を変えない限り、世論は色々困惑させられるようなことが起こってもそれほど騒ぐことはない。事件はたちまち吸収されて、それによって、社会制度が危機に瀕したというよりも、むしろ基盤が強固であることを証し立てるのである。

    しかし、一般意識の限界値に達して、大方の国民に、「国家」の無策の責任に帰せられるべき問題を考えずには自分たち個々の問題も考えられないというような事態に至ることがある。したがって、一般状況が個人生活に大きく影響するほど悪化し、公的事象が出来事の翻弄されているように見え、人々や制度への信頼感が失われて、行政機能や業務実態、法律の適用がいい加減になって、依怙贔屓や因習に流れるようになり、諸政党が争って権力の甘い汁を吸い、低級な利権を貪って、権力が提示する理念的な救済手段には目を向けなくなったとき、そうした無秩序と混乱の感覚は、それを身にの受け、そのような解体からはいかなる利益も引き出すことのない人々の心に、必ずや、正反対の状況を思い描かせ、ほどなく、そういう状況を実現するためにすべきことは何かを喚起することになる。

     そうなるともはや政体は以下の三点だけで支えられることになる。すなわち政体の存亡に関わる利害の力、不安感と未知なるものに対する恐れ、そして独自で明確な未来の観念の欠如、あるいは、そうした観念を代表するような人間の不在である。 

     

     独裁が想像裡に描かれるようになるのは、精神が出来事の推移に権威・連続性・統一が認められなくなったときである。反省的意志の存在と組織された知識の統御の標識であるその三つのものが認められないと、精神の反応は必然的に(ほとんど本能的に)独裁を思い描くのである。

     そうした反応は異論の余地のない一つの事実である。ただし、そこには、政治権力の影響が及ぶ範囲や深度に対して過大な幻想が抱かれているふしがないではない。しかし、反省的思考と公的秩序の混乱とが出会ったとき、唯一形成されるのがそれなのだ。意識的か否かを問わず、みんあが独裁を思うのである。各人が心の中で独裁者が生まれつつあるのを感じる。それは一次的で自然発生的な効果で、一種の反射反応である。それによって、現在あるところのものと正反対のものが、議論の余地なき、唯一かつ明確この上ない必要物とし前面に押し出されてくるのだ。それは公的秩序と救済の問題である。この二つのものをなるべく早く、最短距離で何を犠牲にしてでも手に入れなければならない。唯一、一つの自我だけがそれを成し遂げることができる。

     

     要するに、精神が自分を見失い、自分の主要な特性である理知的行動様式や混沌や力の浪費に対する嫌悪感を、政治システムの変動や機能不全の中にもやは見出すことができなくなったとき、精神は必然的にある一つの頭脳の権威が可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。なぜなら、様々な知覚、観念、反応、決断の間に明確な照応関係が把握され、組織され、諸事情に納得できる条件や処置を施すことができるのは、頭脳が一つのときだけに限られるからだ。

     あらゆる政体、あらゆる政府はこうした精神による判断に曝される。権力のとる行動あるいは無策が、精神にとって、あり得ないようなものに思われ、自らの理性の行使と矛盾するように思われると、たちまち、独裁の観念が姿を現す。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:42 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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