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『中庸』、パスカル『パンセ』、『アリストテレス倫理学入門』

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    宇野哲人 全訳注『中庸』(講談社学術文庫)

    J・O・アームソン『アリストテレス倫理学入門』(岩波現代文庫)

    世界文学全集11『パスカル・モンテーニュ』(筑摩書房)

     

     現在では、世界中で過激な発言、行動、思考がまかり通って敵対的な対立を生み出し、それを阻止しようとする側でも同じように過激な行動に走っています。今必要なのは「寛容」とか「中庸」であると言われながらも、すべての人がそのような気になるのはほとんど不可能なことのようです。

     東西を問わず、古の哲人たちは「中庸」の必要性を語っていますが、人間はそれに耳を貸そうとしません。「中庸」に関する言葉を幾つか紹介したいと思います。

    先ずは、文字通り『中庸』です。中国古代では四書五経の『大学』『中庸』『論語』『孟子』に入っているほど学問をする上では重要な書籍として扱われてきました。以下は『中庸』からの抜粋です。

     「偏(かたよ)らざるをこれ中と謂い、易(か)わらざるをこれ庸と謂う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。」

     「君子は中庸をす。小人は中庸に反す。君子の中庸は、君子にして時に中す。小人の中庸は、小人にして忌憚なきなり。」

     

    次は『アリストテレス倫理学入門』からの引用です。中庸に関しては主にアリストテレス『ニコマコス倫理学』では第二巻で触れられています。

     中庸の理論の中心思想は次の通りである。優れた性格とはそれぞれの状況に応じて、その状況にとって最適な程度に情動を感じたり表したりする気質であり、このような気質は、情動の感じ方、表わし方が超過することと不足することとの間に位置する。中庸においては、人は各情動を適切な時に、頻繁に過ぎることもなく間遠に過ぎることもなく、適切な事象に対し、適切な人々に向かい、適切な理由を持ち、適切な方法によって感じを表わす。

    超過の誤りは、時を選ばず、不適切な状況において、正しい理由もなく、不適切な方法で情動を感じ表わすことである。不足の誤りも同様に述べることができる。

     超過と不足を簡単に言うと、「多すぎる」と「少なすぎる」になる。このために多分多くの読者が、中庸の理論を、あらゆる場合に情動と行動の極端を避けるべきだという「適度の理論」と見做してしまったのであろう。しかし『ニコマコス倫理学』の幾つかの箇所から、この解釈が誤りであることが分かる。たとえば、「恐怖、自信、欲望、怒り、憐れみ等々の快不快は、感じすぎろこともあれば、感じなさすぎることもあり、その両方ともよくない。これらの快不快を、適切な時に、適切な事物に対し、適切な人々に向かい、適切な動機により、適切な方法で感じることが、中庸であると同時に最善であり、これを優れた性格という」

     

    最後に、パスカルの『パンセ』(松浪信三郎訳)378より引用します。

     極端な精神は、極端な精神喪失と同様に、狂愚として非難される。中庸以外には何も良いものはない。そのことを決めたのは多数の人々である。人々は、どちらの端を通ってにせよ、中庸から抜け出る者を悪く言う。私は必ずしも中庸に固執しはしないが、そこに置かれることに同意する。私は下の方の端に置かれることを拒絶する。それは、そこが下の方であるからではなく、そこが端であるからである。なぜなら、私は上の方の端に置かれることも、やはり拒絶するであろう。中間から逸脱することは、人間性から逸脱することである。人間の魂の偉大さは、いかにして中間に身を持するかを知る点にある。偉大さは中間から逸脱することにあるどころか、むしろそこから逸脱しないことにある。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:13 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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