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柴田元幸翻訳『ウインドアイ』・『遁走状態』

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    ブライアン・エヴァンソン著 柴田元幸訳

     『ウインドアイ』(新潮社 2016年)『遁走状態』(新潮社 2014年)

    柴田元幸著『愛の見切り発車』(新潮社 1997年)

    三浦雅士著『村上春樹と柴田元幸のもう一つのアメリカ』(新書館 2003年)

     

     或る一人の作家の小説を読み始めるきっかけは色々あります。「人に勧められて」「新聞・雑誌の書評欄を見て」「テレビなどの紹介で」「ベストセラーで興味があった」「本屋で立ち読みしておもしろそうだったから」等々。実際に読んで感銘を受けたり面白かったりすれば、その作家の他の小説も読んでみたくなります。過去の作品を読み、新作を購入するという、いつの間にかその作家のフアンになり、それでも、長い付き合いのあとで、マンネリということではないにしても離れていくこともあります。

     同じようにある翻訳家が気にっいてフアンとなり、その翻訳家の翻訳した小説を読み続けるということもあるのでしょうか。私にとっては柴田元幸さんがその翻訳家ということになります。最初はアメリカの作家ポール・オースターの「ニューヨーク三部作」から始まってポール・オースターの作品をいまでも読んでいます。このときは翻訳が誰だということは気にしていませんでした。

    次に、村上春樹の作品では『18Q4』から興味が湧き過去の作品を読み今でも新作を読み続けています。村上春樹と柴田元幸との英米の現代文学の翻訳を通しての関係を知り、はじめて柴田元幸さんに関心を持ちました。柴田元幸責任編集の季刊誌『MONKEY』はいつも楽しく読んでいます。ということで柴田元幸のフアンとなり、英米現代文学に関する彼の選択眼を信頼して、その翻訳した小説を読んでいますが、いつも期待にこたえてくれています。

     

     『ウインドアイ』・『遁走状態』、出版順では後先逆に読むことになりました。どちらも短編集ではありますが奇妙な小説として引き込まれていきます。どの作品も、何となくというのか唐突に話が始まり、現と幻の間を彷徨よっているような理解不能なまま話は進展し、尻切れトンボのような形で話が終わってしまいます。長いお話の始めと終わりを切り取って隠してしまったような印象です。しかし病み付きになりそうです。

     柴田元幸さんにはもともと、本人の資質としても、このような性質を持っているのかもしれません。以下は『村上春樹と柴田元幸のもう一つのアメリカ』からの引用です。

     

     柴田元幸に「死んでいるかしら」というエッセイがある。エッセイ集の表題にまでしているから、おそらく本人としても気に入っているエッセイなのだ。表題もそうだが、書く出しも衝撃的だ。「自分はもう死んでいるのではないだろうか、と思うことが時々ある」というのである。はっきりいって、こういうことを思う人間はあまりいない。。時々思う人間だってまずはいないだろう。エッセイは次のように続く。

     「朝早く、駅に向かって自転車のペダルをこぎながら、角を曲がるときなどに、ふと、僕はこないだの朝こうやってこの角を曲がろうとして、実は大型トラックと正面衝突をして死んだんじゃないだろうか、という思いに襲われたりするのである」

     これは簡単に言えば、自分は実は幽霊ではないかといっているのである。幽霊であることを忘れているのではないか、と。ふむ。ふつうなら、これは狂気すれすれですね。そこで柴田元幸は大急ぎで次のようにつけ加える。「ようするに寝ぼけているだけ話なのかもしれないのだが」と。仮に変な事を言っているにしても、寝ぼけている、すなわちあくまでも正気の一形態なのであって、狂気に陥っているわけではないのだから、そのへんは何分に宜しく、というわけだ。

     だけど、寝ぼけているにしたって、幽霊が寝ぼけて柴田元幸になったと思っているのか、柴田元幸が寝ぼけて幽霊になったと思っているのか、いったいどっちのほうに寝ぼけているというつもりなのだろう、と怪訝な顔をすることになってしまう。

     柴田元幸は大急ぎでさらに一言と付け加える。

    「これはたとえば、自分が今ここにいることへの微妙な違和感というか、生に対する根源的な疎隔感というか、生きていることを日ごろからどうも実感できずにいるという、いわば存在論的次元などとは違う話である。」哲学的な話でも、精神病理的な話でもない、というわけだ。「むしろ、もっとずっと単純に、えーと何か大事なことを忘れている気がするんだけど何だったけかな、といった」そういう感じなのだ、と。つまり、忘れ物でもしたような感じでそう思ったのだ、と。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:17 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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