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ハンナ・アーレント著『責任と判断』その2

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    ハンナ・アーレント著『責任と判断』(筑摩書房)

     

     今回、ハンナ・アーレント著『責任と判断』のなかの「裁かれるアウシュヴィッツ」からの引用です。この裁判は1963年12月に時効にかからない唯一の犯罪であるナチスの犯罪者たちを裁くことを目的にして、フランクフルトで戦争犯罪人裁判が始まったものです。

     

     証人の裁判前の取り調べの内容と裁判での証言のくい違いは、法廷の外の世論を背景にしなければ説明できないことだが、これよりもさらに驚かされたのは、被告の証言の場合にも、まさにこれと同じくい違いが起きたということなのである。たしかに、証言を翻した被告たちはあとになって弁護人から、ごく基本的な言行の不一致となっても、すべてのことを否定するのが最も安全な方法だと教えられたに違いない。

     ホーフマイヤー判事は「アウシュヴィッツで何かをしたことを認めた被告人に一人も出会ったことがない。司令官はそこにはいなかったし、担当の士官はたまたまそこにいあわせただけだし、政治部の代表はリストを手にしていただけであり、担当者は鍵を持ってきただけなのだ」と語っている。「沈黙の壁」はこうして築かれるのであり、被告は常に嘘をつくのである。こうした嘘はいつも一貫性があるとは限らないが、それは一貫性のある嘘をつくには知性が足りないからなのだ」

     

     大切なのは、フランクフルト裁判の被告は、はかのほとんどすべてのナチスの犯罪者と同じように、自らを守るために行動しただけでなく、自分の周囲の居合わせた人々と同じように振る舞っていたということである。いわば一瞬の連絡で、みんなと調和する姿勢を示したのである。まるでこれらの犯罪者は権威でも恐怖でもなく、自分が一緒にいる人々の意見の一般的な雰囲気に敏感に反応するかのようである。

     

     こうした状況にあって世論が、「小さな魚は捕らえられ、大きな魚はキャリアをつづける」と語るのは、意外な事ではない。

     

     被告人と弁護人たちが出発点として「収容所スタッフとその行動に関して、アウシュヴィッツをまるで牧歌的な世界のように描く」という最初の試みが崩壊し、証言が語られるごとに、文書が読み上げられるごとに、何も見ないでいることはできなかったこと、何も知らないでいることはできなかったことが明らかになったのだった。それでも収容所の副司令官だったヘッカーは、かなり後になって噂に聞くまでは「ガス室について何も知らなかった」と主張した。

     この最初の試みが失敗に終わると、被告たちは自分たちが告発されて「法廷に立たされているのは」、まず「証人たちが復讐を目的として証言しているから」であり、第二に被告たちが「兵士」として命令を実行しただけで、「善悪については問われなかった」からであり、第三に小物たちは上官のためのスケープゴードとして必要とされたからである、としている。

     

    ■いずこの国でも、また時代は変わっても、そして事の軽重は違っていても、変わらないのは官僚の無責任体質と、ことが起きると誰も責任を取らずに逆に肥大化する一方の官僚組織ということです。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:08 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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