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ハンナ・アーレント著『責任と判断』

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    ハンナ・アーレント著『責任と判断』(筑摩書房 2007年)

    訳 者:中山元 編:ジェローム・コーン

     

     このブログでも何回か紹介していますが、映画『ハンナ・アーレント』を見てから、『イェルサレムのアイヒマン』はじめ彼女の著作を読んでみました。『人間の条件』(ちくま学芸文庫)はそれ以前に読んでいましたが、彼女の著書はいずれも難解な内容で私の理解するところではありませんでした。それでも読み進めたのは映画の中でのハンナ・アーレントの何者にも阿らない信念の人であり、「考えること」の重要性を強調していたことです。映画での一場面からの引用

     「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質をを放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。”思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける能力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に破滅に至らぬよう。」

     

     今、東京都の築地の豊洲への移転問題がマスコミを賑わしています。これに関わった都知事、議員、官僚、役人、あるいはひょっとすると建設関係者まで、まさに思考を放棄し、結果として本来負うべき「責任と判断」を放棄した人間の集団のように思われます。このような人たちを「人格を持った人」とは言えないとアーレントは言っています。以下は『責任と判断』からの引用です。この本は政治家、官僚、そして官僚化している組織の人たちに読んでもらいたい本です。

     

     まず私の著書『イェルサレムのアイヒマン』が巻き起こした嵐のような議論に就いて一言申し上げたいと思います。「引き起こした」ではなく、「巻き起こした」という語を使ったのは考えがあってのことです。というのも、議論の大半は、書かれてもいないことについてだったからです。ですから私の最初の反応は、オーストリアの有名な冗談「誰も読んだことのない書物に就いて議論するほど、楽しいものはない」にあやかって、すべての議論を無視しようとするものでした。でも議論が続いて終盤に差し掛かると、奇妙なことに私が語ってもいないことを攻撃するだけではなく、反対に私が語ってもいないことを弁護する意見が増えてきたのです。

     この議論は何とも不気味なものでしたが、私はやがてこの議論はたんなるセンセーションでも娯楽でもなく、もっと別な要素を含むものではないかと考えるようになり始めました。ここに込められているのはたんなる「感情的な反応」だけではないのではないけと感じ始めたのです。たんに誤解があっただけではなく、この論争が原因となって、著者と読者のコミュニケーションが完全に崩壊してしまうことすらあったのです。

    私は最初はこれは、直接に利益が関わる集団が事実を偽造し、歪曲していたことによるものだと考えていたのですが、それでは済まないものがあったのです。こうした利益集団は私の著書そのものよりも、これがきっかけとなって、議論の対象となった時代について公正で詳細な吟味が行われるようになるのを恐れていたのでした。

     この問題についての議論では、いつもさまざまな種類の道徳的な問題が提起されました。こうした道徳的な問題の多くは、私の著書では一言も言及していませんでしたし、たんに軽くふれただけのものもありました。私はこの裁判について事実に基づいて説明しただけです。そして「悪の凡庸さについての報告」という著書のサブタイトルも、実際の事実によってきわめて明らかに証明されていることであり、これについてさらに説明が必要だとは感じませんでした。私は自分が衝撃を受けた事実を指摘しただけですが、私が衝撃を受けたのは、その事実が悪についての私たちの理論に矛盾するからであり、もっともらしくはなくとも、ともかく真理だったからです。 

     私はたちはソクラテスと同じように、自分が悪を為すよりも、悪を為される方がましであると考えていますし、それはごく自明なことだと考えていました。しかしそれは自明などではないことが明らかになったのです。今では多くの人々が、どんな種類の誘惑にも抵抗できないし、結局のところ人間は誰も信頼できず、信頼に値しないものであり、誘惑されることと強制されることはほとんど同じことだと考えるようになっているのです。

     

     ちなみにアイヒマンがイェルサレム裁判の判決に異議を申し立てる際に利用したのは、「ほかにもやり方があったはずだし、殺人を犯す義務から逃れることもできたはずだ」と指摘されると、アイヒマンは「これは戦後に考え出した後知恵にすぎず、実際に起きたことを忘れたか、知らない人々だけが信じているのだ」と主張したのです。

     

     ナチスの犯罪者の裁判で困惑が生じたのは、これらの犯罪者たちがすべての人格的な性質を放棄していて、まるで罰する人も赦免すべき人も残されていないかのようだったからです。ナチスの犯罪者たちは、自ら自主的に行ったことは何もないこと、善にせよ悪にせよ、いかなる意図もなかったこと、たんに命令に従ったに過ぎないことを繰り返し強調して、処罰に抗議したのです。

     言い換えると、犯された最大の悪は、誰でもない人によって、すなわち人格であることを拒んだ人によって実行されたことになります。これらの問題を考察する概念の枠組みにおいて、自分が何をしているのかをみずから思考することを拒んだ悪人、後になって自分の為したことを回顧することを拒み、過去に立ち返って自分のしたことを思い出すこと(悔悛すること)を拒む悪人は、自分を〈誰か〉として構築することに失敗したということです。これらの犯罪者は〈誰でもない人〉であり続けることによって、他者との付き合いに相応しくないことを証明したのです。他社とは、善きにせよ、悪しきにせよ、あるいはそのどちらでもないにせよ、少なくとも人格ではあるのです。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:14 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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