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森田真生著『数学する身体』『考える人』&岡潔『日本のこころ』他

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    森田真生著『数学する身体』(新潮社 2015年)

    季刊誌『考える人 数学は美しいか』(新潮社 2013年夏号)

    岡潔著『日本のこころ』(講談社 昭和43年)

       『春宵十話』(光文社文庫)、『春風夏雨』(角川ソフィア文庫)

    岡潔・小林秀雄対話『人間の建設』(新潮社 昭和40年)

     

     第15回小林秀雄賞を森田真生著『数学する身体』が受賞しました。この記事を読んだ時、森田真生という著者の名前をどこかで見たような気がして、探してみたら季刊誌『考える人』2013年夏号の特集「数学は美しいか」の中で、森田真生氏が「数学と情緒」というエッセイを書いていました。「数学と情緒」という題からも分かるように世界的な数学者である岡潔に触れたものでした。

     そしてこの『数学する身体』も岡潔の影響を強く受けたうえでの作品であることが分かります。以下『数学する身体』からの引用です。数学・数字は苦手でもこの本はとても面白く読めました。

     

     1955年9月には、当時世界で最も影響力を持っていた数学者の一人、アンドレ・ヴェイユが来訪した。そのヴェイユと岡潔が、奈良の日本料理店で邂逅したのだ。このとき二人は、互いの研究を振り返りながら、多岐にわたる話題を交換した。その中で、ヴェイユが岡に「数学は零から」と言うのに対して、岡が「零までが大切」と切り返す場面があったという。まるで禅問答のようなやりとりであるが、私はこのエピソードを初めて耳にしたとき、「零までが大切」という岡潔の言葉が、なぜか強く印象に残った。

     ヴェイユの「数学は零から」という言葉には、数学の本質が零からの創造である、と言う気持ちが込められていたのかもしれない。あるいは、いかなる信仰や政治的信念からも自由に、本当のまったき「零」から出発して豊かな世界を構築し得る数学に対する誇らしい気持ちがあったのかもしれない。そこには、数学が他の何物にも依存しない、自立した学問であるという自負の念もあっただろう。それに対する岡の返答はどうだろうか。私はここで、彼のエッセイの一節を思い出す。

     「職業に例えれば、数学に最も近いのは百姓だといえる。種子をまいて育てるのが仕事で、そのオリジナリティーは「ないもの」から「あるもの」を作ることにある。数学者は種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の法にある」

     岡によれば、数学者の仕事は百姓のそれに近いという。その本分は「ないもの」から「あるもの」を作ること、まさに「零から創造すること」にある。しかし、なぜ「ないもの」から「あるもの」ができるのか。それは種子の中に、あるいは種子を包み込む土壌の中に、「ないもの」から「あるもの」を生み出す力が備わっているからだ。

     百姓が種子からかぼちゃを育てるように、数学者は零から理論を育てるが、その種子自身を、あるいは零そのものを創り出す力は人間にはない。「零から」は人間の意志で進めるけれど、「零まで」は人間の力ではどうしようもない。しかし、この「零まで」が肝心である。

     数学における創造は、数学的自然を生み、育てる「心」のはたらきに支えられている。種子や土壌のない農業があり得ないように、心のない数学はあり得ない。その心の働きそのものを、人間の意志で生み出すことはできない。人間にできるのは、それを生かし、育てることだけである。

     

     岡潔が「情緒」という言葉を好んで使った背景にはそれなりの理由があった。心には本来、「彩りや輝きや動き」がある。ところが、「心」という言葉はあまりに使い古されてしまって、そのままでは「なんだか墨絵のような感じ」を受ける。そこで、心の彩りや輝き、動きをもっと直截に喚起する言葉として「情緒」と言う表現を使うのだと、エッセイの中で繰り返し説明している。

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