<< July 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 天皇陛下が「生前退位に関するお気持ち」を述べられました | main | 保阪正康著『昭和天皇』その2 >>

保阪正康著『昭和天皇』

0

    保阪正康著『昭和天皇』(中央公論新社 2005年10月)

     

     天皇陛下の「生前退位に関するお気持ち」をビデオメッセージでお聞きし、新聞でその全文を読ませていただいて感じたことは、天皇陛下が皇太子の時代に体験された昭和天皇の最期が心に残っているのではないでしょうか。以下は『昭和天皇』からの引用です。

     

     昭和63年5月13日、体重の減った身体に合わせてモーニングを作り直すことになり、宮殿で仮縫いが行われた。仮縫いは20分ほどで終わったが、しかしこのあとに昭和天皇は立ちくらみを起こして倒れた。すぐに侍医団が駆けつけ治療に当たり、吹上御所で点滴を受けて、しばらくは身体を休めて体調を整えることになった。こうした状態のため、19日に赤坂御所で開かれた春の園遊会に出席するにしても初めに挨拶されるだけで、例年のように会場を廻って招待者と会話を交わすのは取りやめることに決まった。

     天皇は春の園遊会で招待客を前にして、「きょうは大勢来てくれてうれしく思います。皆がそれぞれの分野において尽力を尽くしていることは、誠にご苦労に思います。この機会にゆっくりと楽しんでくれることを希望します」と「お言葉」を述べてすぐに吹上御所に戻った。天皇は園遊会の招待客と言葉を交わのを楽しみにしていたが、それができないというのは辛らかったに違いない。

    こうした体調の変化にもかかわらず、天皇は日々の公務に誠実に対応していた。

     

     天皇は、昭和63年8月13日に那須から東京に戻られた。15日に日本武道館で開かれる戦没者追悼式に出席するためである。東京に戻る交通手段はヘリコプターによった。もともと列車なら時間もかかるし、疲労も大きいだろうとの宮内庁の侍医団の了解もあっての判断であった。侍医団は、戦没者追悼式に出席することに懸念を持っていた。というのは、この追悼式では「お言葉」を述べなければならないし、長時間立っていなければならないからだ。しかし、侍医団は天皇がこの追悼式にいかなることがあっても出席したいとの希望を持っていることを知っていた。侍医団は、天皇が出席されてもいいが、壇上で倒れらるようなことがあっては大変だから、必ず侍従長が付き添っていて、もし倒れるようなことがあったらすぐに支えられるようにとの条件を付けたという。

     

     那須の御用邸から戻った当初は、体調も決して悪くはなかったが、9月18日からは高熱の症状を示すようになった。そのため秋の大相撲秋場所観戦も中止になった。様態が一段と悪化したのは、9月19日の午後10時ごろのことだった。吹上御所2階の寝室で点滴を受けていた天皇は、突然大量の吐血をされた。医師団も皇太子殿下にご連絡した際も、「すぐに参ります」とおっしゃりましたが、「すぐにおいでになられる必要はございません。夜が明けてからの方がよろしいでしょう」と申し上げたという。が、皇太子同妃両殿下は、午前2時ごろには吹上御所に駆けつけられました。

     天皇に容態が悪化しているとの諒解が国民の間にも広がっていった。竹下内閣は、22日午前中に閣議を開いて天皇の国事行為をすべて皇太子殿下に委任することを決定した。

     天皇と皇太子は、侍医団の諒解のもと会話されることもあった。皇太子が代行されている国事行為についての内容も多かったという。天皇の体調が悪くなる前には、皇太子が名代として赴かれた沖縄訪問についての会話もあったという。

     

     宮内庁からは昭和64年1月1日の新年の祝賀の儀では、皇太子が天皇に代わって祝賀を受けられ、1月2日の一般参賀は記帳だけにとどめるとの発表があった。「陛下が病と闘っている時に、祝賀の儀を行うべきではない」との声もあった。しかし、この儀式は憲法に定める儀式に当たる上に、国事行為の代行者として皇太子が祝賀を受けないことはおかしいのではという声が通ったのでる。新年の祝賀の儀では皇太子御夫妻がその祝賀を受けられた。しかしどの都市でも繁華街からは派手なネオンが消え、テレビ番組も娯楽色をできるだけ薄めていたのである。

     

     1月5日の夕方からは、昏睡状態に入り目を開くこともなかった。そして1月7日午前2時ごろから呼吸が次第に浅くなっていた。容態の好転もなく午前4時ごろからは呼吸が乱れるようになった。皇太子ご一家はじめ皇族方が病室に入っていった。後続の全員が集まって天皇の最期の闘いを見守ることになった。そして午前6時33分にお亡くなりになりました。

     

     この日午前8時から9時すぎにかけて、次々と記者会見が開かれ、昭和天皇から皇太子殿下の時代へと移行するための手続きが説明された。その中で重要なことは、皇位に空白が許されないために、竹下内閣は午前8時20分すぎに臨時閣議を開いて、天皇崩御と皇位継承の内閣告示を行うこと決めたことだった。皇室典範第4条には、天皇崩御のときには皇嗣がただちに即位するとあり、皇太子明仁親王が第125代天皇に即位することになると発表された。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:44 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

    コメント

    コメントする









    トラックバック

    このページの先頭へ