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E・H・カー著『危機の二十年』&『歴史とは何か』

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    E・H・カー著

     訳 者:原彬久 『危機の二十年 理想と現実』(岩波文庫 2011年)

     訳 者:清水幾太郎 『歴史とは何か』(岩波新書 1962年)

     

     アメリカでは大統領選挙に向けての共和党・民主党の予備選挙が終わり、党大会が開催されています。共和党はトランプ候補、民主党はクリントン候補で決まりのようですが、今回の大統領選挙はどちらもネガティブな面だけが強調され、史上最低の大統領選挙と言われています。どちらの候補が、よりアメリカ大統領に相応しいのかで選ぶのではなくて、どちらの候補を落とした方がアメリカにとっていいのかを選ぶ選挙になっています。これは国民にとっても不幸なことなのかもしれません。

     また、イギリスでは「EU離脱か残留か」の国民投票が実施され、僅差で離脱派が勝利しましたが、選択の多くは難民受け入れ問題が影響したようにも思われます。

     もっとも、残念ながら、よその国のことを言うほど日本の国会議員・地方議員・地方首長の選挙の立候補者が立派ということでもありません。どちらが少しはましかと消去法で選ぶしかないことでは同じことです。

     

     E・H・カー著『危機の二十年』で書かれている20年とは、1919年に第1次世界大戦が終わり、ベルサイユ条約・パリ講和会議そして国際連盟(アメリカは加盟せず)が設立されて、これから戦争のない平和な世界が訪れるのかいという期待の年から、第2次世界大戦が勃発した1939年までの戦間期20年のことを指しています。そしてこの本は1939年夏に完成して出版されましたが、1945年に一部修正された第2版が出版されています。

     岩波文庫で第2版が翻訳出版され、いま読み直してみても、現代の世界情勢がまさにこの戦間期に当たるような当惑を覚えます。

    以下は『危機の二十年』からの引用です。

     

     1932年の大統領選挙運動でフランクリン・ルーズベルトは、フーヴァー氏がヨーロッパにおけるその人道主義的行動ゆえに名声を博したことを捉えてこれを当てこすった。そしてルーズベルトはフーヴァー氏に対して、「フーヴァー氏の言ういわゆる『後進的で無能な諸国家』から目を転じて、カンザス、ネブラスカ、アイオワ、ウィスコンシン、その他の農業州の大規模で打ちひしがれた市場へと関心をむける」よう求めたのである。

     自国民の利益と両立できるほどの規模で難民を引き受けるのはその国の義務ではあるが、しかし無数の外国難民に国境を開放することによって自国市民の生活水準が下がるとなれば、それは一般に受け入れられる道義的義務とは言えない。「侵略」の犠牲者を援助するようイギリスに迫った同国の国際連盟支持者たちは、イギリスの死活的利益を損ねてまで何が何でも援助すべきだと言い張ったわけではない。彼らは、イギリスが無理なくできる範囲内で援助すべきだと主張したのである。

     愛他的な美徳に関して一般に認められている国際道義の基準は、およそ次のようなものである。国家はそのより重要な利益と深刻な矛盾をきたさない限り、この愛他的な美徳を実践すべきだということである。その結果、安全で豊かな国家群は、自らの安全や借金支払いの問題に絶えず汲々としている国家群に比べれば、愛他的な行動をする余裕があるということわけである。こうした側面は、イギリス人やアメリカ人が通常持っている考え、すなわち自分たちの国の政策が他国の政策よりも道義において一層進歩的であるという考えの根拠となっているのである。

     

     しかし一般人が、個人に要求されるある種の道義的行動を集団人格には要求しない、というのは事実である。いやむしろ、一般人は、個人の次元でははっきり不道徳とみなされるある種の行動を集団人格には期待する。集団は個人の道義的義務の一部を免除されるばかりでなく、闘争性や自己主張と明確に結びついており、しかもこれらは集団的人格の肯定的な美徳となっている。個人は、集団における他の人々と結合することによって力を追い求めるのである。こうして個人の「共同体への献身は利他主義の表現であると同時に常に利己主義の変形した表現を意味するようになる」のである。

     もし彼が強者なら、彼は自らの目的に合うように集団を変えていく。もし彼が弱者なら、彼は自己主張のための権力を欠いているその埋め合わせとして、集団が彼の身代わりに自己主張してくれると考える。もしわれわれが自ら勝つことができないなら、われわれは自分たちの陣営が勝利することを望むのである。

     集団への忠誠は個人の主要な美徳とみなされるようになり、個人ならそれだけで非難されるような集団的人格の行動も、この集団への忠誠ゆえに許されることになろう。集団全体への福祉を促進し、集団全体の利益を助長することが道義的義務となる。しかしこの義務は、より広い共同体への義務を覆い隠す傾向にある。個人にとって不道徳である行為は、それが集団人格のために為されるとき、美徳となるかも知れない。

     

     同じことは、株式会社の多くの役員たちによって、また立派な大義の推進者たちによって真面目に論じられてきた。ニーバー博士はこう書いている。「現代の人々は自分たちの悪徳をますます大きな集団に委ねてしまったがゆえに、自分たちを倫理的存在であるとする傾向はいよいよ強くなっている」。同じようにわれわれは、他者への敵意も集団に委ねている。個々にイギリス人が個々のドイツ人を憎むよりも、「イギリス」が「ドイツ」を憎む方が簡単である。個々のユダヤ人に敵意を抱くよりも、反ユダヤ主義であるほうが容易である。われわれは、個人としての自分たちの中にあるこのような感情を非難する。しかし一方で、われわれは、集団メンバーとしての立場で何の良心の咎めもなくこうした感情をほしいままにするのである。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:12 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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