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映画『帰ってきたヒトラー』&『ハンナ・アーレント』

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    映画『帰ってきたヒトラー』パンフレット(2013年)

    映画『ハンナ・アーレント』パンフレット(2016年)

    ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』(河出書房 2014年1月)

    アドルフ・ヒトラー『わが闘争』(角川文庫)

    西義之『ヒットラーがそこへやってきた』(文芸春秋社 1983年)

     

     ティムール・ヴェルメシュ著『帰ってきたヒトラー』は2014年に、日本で翻訳出版されてすぐに読み、このブログでも紹介しました。既にその時の本の帯には「映画化決定」の文字が。また訳者は後書きとして、以下のように書いています。

     「ヒトラー礼賛が禁止されているドイツで本書が出版可能となったのは、ヒトラーを戯画化した風刺小説だからだ。とはいえ、批判のもちろんあった。とりわけ問題視されたのは、ヒトラーが悪者としてではなく人間的な、あえていえば魅力ある人物として描かれている点だろう。だがこれは、著者がまさにこの小説で狙ったことだ。「ヒトラーに関するこれまでの説明やアプローチや視点はどれもみな同じだった。だが人々は、気の狂った男を選んだりはしない。人々は、自分にとって魅力的に見えたり、素晴らしいと思えたりする人物をこそ選ぶはずだ」。ヒトラーを怪物に仕立て上げるだけでは、なぜあのような恐るべき出来事が起きたのかの真の理由は分からない、というのが著者の見方だ。」

     

     映画『帰ってきたヒトラー』は、小説をさらにスケールアップして、まさに愛すべき魅力的な人物に仕立てています。以下はパンフレットからの紹介です。

     ヒトラーはこのように語ります。「若者の貧困、老人の貧困、失業・移民、出生率の低下(子供を産まない)これではドイツは滅びる」と。これはまさに最も今日的な問題です。また、「私を選んだのは普通の国民だ。選挙で優れた人間を選び、国家の運命を託したのだ」と。そして。ヒトラーが権力の座に近付いたことをうかがわせる結末は、その先の未来への警鐘を鳴らしているようです。有権者は投票の責任を引き受けられるのか?選挙後に何が待っているのか?未来の翳りを浮き彫りにする点で、映画『帰ってきたヒトラー』はおかしくも恐ろしい映画です。

    この映画、冗談だとは思えない。最初は笑えたんですが、後半はもう、鳥肌が立つぐらいの不気味さがありました。デマゴーグは魅力的な存在でありメディアが生んだ怪物なのだ、だからこそ危険なのだ、という事が忘れ去られている今、もし再びヒトラー、あるいはヒトラーと同じくらいの魅力と戦略を持ったデマゴークが現れたとき、われわれの脆弱性が露呈するのではないか。

     

     ハンナ・アーレントは、「悪の陳腐さ(凡庸さ)についての報告」とサブタイトルのついた『イスラエルのアイヒマン』という著書の中で、「陳腐さ(凡庸さ)」とは、ユダヤ人大量虐殺の被告アイヒマンの言動、さらには膨大なナチス資料にあたったうえでのアーレントの行きついた一語だった。ナチズムが猛威を振るった15年間、とどめない暴力と殺人をもたらし、実行した者たちは、いかなる異常な人間集団でも、特別な悪人でもなく、ごくふつうの大人たち、陳腐で凡庸な市民たちだった。と語っています。

     

     西義之著『ヒトッラーがそこへやってきた』での言葉。

    どうしてヒトッラーはやってきたのだろ。このテーマは、現代史研究家を捉えるもののようである。それはヒトッラーが、未来に再び現れるかもしれない予感のためというよりはむしろ、民主主義体制というものが、いかに脆く、全体主義体制に取って代わられるうるかという感触からではないか。ヒトッラーのような雄弁家はもはや現れないかも知れない。未来のそれは、むしろ微笑する全体主義であるかも知れない。大衆社会に忍び足で近寄ってくる全体主義を、私たちははたして知覚できるだろうか。知覚できたとしても、どうやってそれを阻止することができるだろうか。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:31 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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