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武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す』『十三妹』&『秋瑾 火焔の女』

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    武田泰淳著『秋風秋雨人を愁殺す』(筑摩書房 昭和43年)

         『十三妹(シイサンメイ)』(中公文庫 2002年)

    山崎厚子著『秋瑾(しゅうきん) 火焔の女』(河出書房新社 2007年)

     

     武田泰淳の『秋風秋雨人を愁殺す』は中国清時代末期に革命を目指した女傑、実在の人物である秋瑾(しゅうきん)を主人公とした作品です。また『十三妹』は、中国清時代後期の「児女英雄伝」を原作としており、中国清時代に活躍した女侠(任侠の女性版)を主人公に、忍者なども加えた波乱万丈の活劇物語です。両書とも武田泰淳の他の先品とはかなり違っているようにも思えますが中国文学に造詣が深い作者の興味の対象になっていたようです。

     山崎厚子著『秋瑾 火焔の女』は、武田泰淳著『秋風秋雨人を愁殺す』と同じく秋瑾を主人公としていますが、よほどこちらの方が読みやすく書かれています。

    以下は『秋風秋雨人を愁殺す』からの引用です。

     

     秋瑾女士が刑死したのは、1907年7月15日、光諸33年の6月5日午前、明治40年のことである。逮捕されたのは、6月4日の午後、紹興の大通学校(大通学堂)において、一夜明けて処刑されたのは、紹興の軒亭口においてである。

     

     何かしら志をいだいているかっての血なまぐさい時代の女性たちにとって、「刀」とは、その志を守るためのものであった。そして、非常のときに志を守るとは、多くの場合、自らの命を絶つこtであったから、やはり、生き延びるためよりは、死に急ぐために用いられていた。秋女子が刀剣について彼女の詩想を、あるときは悲しげに、あるときは勇気と怒りをこめて、みちひろがらせているのは、彼女が彼女の革命思想を、自殺用の短剣として握りしめていたからではなかろうか。男どもが甘んじて異民族の奴隷となったまま、外に向かって刀を用いようとしないから、せめて女どもが内に向かって(つまり自分自身の肉体めがけて)刀を用いなければならなくなる。

     「女は辱じて自殺をなし、男は甘んじて順民となる」

    壁に掛けられた神剣が夜半、長くうそぶいて、烈々たるその声は梟の鳴くがごとくであった、その原因が、みにくく生き長らえるたがる男に対する、いさぎよく死にたがる女の恨みと励ましの噴出だったとすれば、その切っ先は・・・・・・。

     秋女子は、明朝滅亡の才さいに自刎(じふん)した宮女を架空のヒロインとして「某宮人伝」をつくっている。自刎とは、自分の手で自分の首をはねること。これは咽喉や乳の下を突き通すより、腕の力を要する死に方であろう。おそらく首の後ろ側に刃をあてがい、その両端を左右に手で握り、一気に前方へ引き下げるのであろうか。

     

     東京における魯迅と秋瑾の接触について、周作人『魯迅の故家』に、見逃しがたい記録が一つある。

    「秋瑾は魯迅と同じころ日本に留学していた。清国留学生取締規則が発表された後、留学生はこぞって反対運動を起こし、秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年配の留学生は、取り締まりという言葉は決してそう悪い意味ではないことを知っていたから、賛成しない人が多かった。それでこの人たちは、留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳もその中に入っていた。魯迅は彼女が一振りの短剣をテーブルの上に投げつけて、威嚇したことも目撃している」

     性急な帰国をがえんじないで、日本での勉学を続けようとする男たちが、秋瑾の眼には、すべて腰抜け、卑怯者として映っていたにちがいない。「私の言うことをきかない者は、みんな死んでおしまいなさい」と、ののしり大声を発している彼女の表情がありありと目に浮かんでくるが、同時に、そのような極度の興奮状態に落ち入っている彼女に注目している魯迅の、きびしい冷酷な表情も、私にはよく想像することができる。

     もしも私が彼女をヒロインとする劇を書くとすれば、壇上で絶叫する女性志士と、その罵声を浴びて黙って座っている医学志望の文学者の姿を、どうしても一場面くわえてみたいところである。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:34 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

    武田泰淳『目まいのする散歩』『富士』『快楽』、武田百合子『日日雑記』

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      武田泰淳著『目まいのする散歩』(中央公論社 昭和51年)

           『富士』(中央公論社 昭和46年)

           『快楽(けらく)1巻・2巻』(新潮社 昭和47年)

      武田百合子著『日日雑感』(中公文庫)

       

       武田百合子の単行本未収録エッセイ集『あの頃』が出版され話題となっています。武田百合子は作家武田泰淳の妻で、優れた随筆や紀行文を残しています。武田泰淳の晩年の作品は妻武田百合子の口述筆記によるものだということです。『あの頃』はまだ読んでいませんが、先ずは本棚にある二人の作品をざっとですが読み直してみました。

      『日日雑感』は、すべてのエッセイが「ある日。」から始まる日記のようですが、そのエッセイの内容によっては「ある日がいつ頃」のことか分かって今でも面白く読めました。

       武田泰淳の『目まいのする散歩』は、散歩を取り上げながら作者の過去から現在に至る身辺での出来事を淡々と記して、妻百合子との交流も興味ぶかく読む事ができます。この本は、妻百合子の口述筆記によるものですからきっと妻の悪口を言うことははばかられたのではないでしょうか。以下「貯金のある散歩」からの引用です。

       

       半恍惚の今、私には貯金がある。私の散歩は「貯金のある散歩」である。ある意味では、貯金帳にしがみ付いた散歩である。貯金帳を頼りにする散歩というものは、働き盛りの散歩とは、まるで異なっている。非常にケチ臭いものになりがちである。一円引き出せば一円減る。だんだん減ってゆけばなくなってしまう。

       

       進駐軍放出物資というものが、かってあった。女房は金魚のヒレのぴらぴらついたようなアメリカ中古服を喜んで買った。アメリカ人の服はサイズが大きくてなかなか適当なものがない。女房の買ったのは、おそらく子供服であろう。赤いだんだらの金魚のようになった女房と、毛皮のチョッキを身に着けた和服の私が揃って歩いていると、通りかかった学生たちが「わあ、ちんどん屋が通るぞ」と、ひやかした。その一方で、女房のただごとならぬ通行を、毎日見守っている五,六歳の幼女がいた。その幼女がある日、父親に向かって「ああいうきれいなおべべを着ている人は、お金持ちなのね」と、感に堪えたように言った。

       

       貯金のことは、すべて女房に任せてある。定期にするか、普通預金にするかも私と相談して彼女が決める。いわば大蔵大臣は彼女である。電話口の対応も彼女に限られているから、女房が外務大臣である。税務署関係の書類を取りまとめて計算するのも女房である。郵便物を要と不要に選り分けるのも彼女である。したがって郵政大臣も彼女ということになる。経済企画庁長官の役も彼女に取られた。私の健康状態は、すべて彼女が診断するから、厚生大臣も彼女に取られた。運転も彼女だから交通大臣(というものがあるかないか知らないが)もとられた。文部大臣だけは私のものだと安心していられない。するするすると口述筆記をするのも女房だから、すでに危なくなってきた。せめて総理だけは、と願っているが、それらの諸大臣に彼女を任命する権力の手綱を、はたして私が握っているかどうか。野党側に回れば、春闘をしようが、ゼネストをしようが、彼女の自由である。ヒステリーを起こして過激派の攻撃精神をあらわにしようとすれば、それも彼女の自由である。(今のところ、総理が妥協的で野党もほどを心得ているから、当分はこのままでいけると総理はひそかに政局を見通しているが)「百合子の得意の巻だな」という総理の述懐も、そっくり、するすると口述筆記され、この散歩シリーズの原稿になっているわけである。

       「歩かない散歩」「待っているだけの散歩」「思いつめないようにしている散歩」「嘔吐しながらの散歩」「犬を連れた散歩」「ネコを残してきた散歩」と題材は限りない。「屍臭のする散歩」「上海での散歩」「マラリアのある散歩」「エロマンガとポルノ映画のある散歩」「一日一食の散歩」「情報全くなしの散歩」「苔とカビのはえた散歩」など、死ぬまでネタには事欠かない。

       

      ■この『目まいのする散歩』に収録されている散歩は、「目まいのする散歩」「笑い男の散歩」「貯金のある散歩」「あぶない散歩」「いりみだれた散歩」「鬼姫の散歩」「船の散歩」「安全な散歩?」の8編です。

      shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:50 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

      小倉昌男著『経営学』

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        小倉昌男著『経営学』(日経BP社 1999年)

         

         現在、宅急便として知られるヤマト運輸に転換期が訪れているようです。通販が日常的となり取り扱い貨物量の拡大に現在の流通システムが追い付かなくなっています。結果として、再配達の拡大で運転手さんの時間外労働が日常化し苛酷な労働をせざるを得なくなっています。サービス残業化していた時間外労働に対する過去の支払いは100億を超えるということで業績にも影響しています。

         ヤマト運輸では、取引先との打ち切りや値上げの交渉、また実際に値上げの決定、配達時間帯の制限など検討を始めています。これが他の運送会社や通販会社そして消費者にどのような影響が出るかはまだ不明です。

         

         宅配便のヤマト運輸を確立した小倉昌男氏の『経営学』が発売当時は大変な反響を呼びました。もし生きていたら、現在の状況にどのような判断を下すのか考えさせられます。或いはここまでくる間に有効な手を打っていたかもしれません。『経営学』の第15章は「経営リーダー10の条件」となっています。

        10の条件とは「論理的思考」「時代の風を読む」「戦略的思考」「攻めの経営」「行政に頼らぬ自立の精神」「政治家に頼るな、自助努力あるのみ」「マスコミとの良い関係」「明るい性格」「身銭を切ること」「高い倫理観」ですが、今回は「高い倫理観」からの引用です。

         

         企業が永続するためには、人間に人格があるように、企業に優れた「社格」がなければならない。人格に人徳があるように、会社にも「社徳」が必要である。

         企業の目的は営利であり、利益の出ている会社がいい会社であり、儲からない赤字の会社は、いくら良い商品を作り、優れたサービスを提供しても、良くない会社だ、という考え方の人もいると思う。要するに企業の存在価値は利潤を生みだすことである、と割り切るわけだが、果たしてそれが正しい考えなのであろうか。

         私はそうは思わない。企業の目的は、永続することだと思うのである。永続するためには、利益が出会ていなければならない。つまり利益は、手段であり、また企業活動の結果である。

         企業は社会的な存在である。土地や機械と云った資本を有効に活用させ、財やサービスを地域社会に提供して、国民の生活を保持する役目を担っている。さらに雇用の機会を地域に与えることによって、住民の生活を支えている。企業は永続的に活動を続けることが必要であり、そのために利益を必要としているのである。

         企業の存在意義は、端的に言えば、地域社会に対し有用な財やサービスを提供し、併せて住民を多数雇用して生活の基盤を支えることに尽きると思っている。それが企業の活動だが、企業とは地域の人をよろこばす存在であるべきで、それでこそ社会的存在ということができるのである。

         私は個人的に、人間として大事なことは「まごころ」と「思いやり」だと思っている。顧客に対しても、社員に対しても、「まごころ」と「思いやり」で接することを信条としてやってきた。

         ヤマト運輸が、創業以来足を向けて寝られないほどご恩になった三越百貨店と50年以上にわたる取引を宅急便を開始して間もなく破棄したのは、当時の三越の岡田社長の倫理観の欠落がどうにも許せなかったからであった。あんな経営者には絶対になるまい、と心に誓ったのである。

         それから20年余り、お客様の力強い支持と、社員の献身的な働きによって、宅急便は当初考えてもいなかったほどの発展を見せた。

          

        shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:49 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

        三木清『人生論ノート』『哲学ノート』ほか

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          三木清著

          『人生論ノート』(新潮文庫 初版は昭和29年発行)

          『哲学ノート』『続 哲学ノート』(新潮文庫 初版は昭和32年発行)

          『哲学ノート』(中公文庫 2010年)

          『哲学入門』(岩波新書 初版は昭和40年発行)

          『パスカルにおける人間の研究』(岩波文庫 1980年)

          マックス・ヴェーバー著『職業としての政治家』(岩波文庫 1980年)

           

           政治家、官僚、その取り巻き(きっとこの中には現総理夫人も含まれるのでしょう)の言動、そして、その責任の取り方が注目されています。これは今に限ったことではありませんし、日本の政治家だけに限ったことでもありません、ましては政治家だけに限ったことでもありません。それにしてもマスコミの発達、インターネットの網の目が政治家の一挙手一投足に目が注がれているようです。ともかく自分の行動の結果に責任の取れない人、取る気のない人には退場を願うしかありません。

           

           NHkEテレ『100分de名著』で4月に取り上げられているのが、三木清の『人生論ノート』です。『人生論ノート』は三木清の著書のなかでも最もよく親しまれていと思われます。

           また、『哲学ノート』は時局・政治に関する内容が多く、『続 哲学ノート』は文学論を論じたものが多く収録されています。『哲学ノート』に収録されている「指導者論」は以前に紹介しましたが、今回は「道徳の理念」からの引用です。ここで、マックス・ウェーベルとされているのはマックス・ヴェーバーのことです。政治家は謝罪で「私の不徳と致すところ」と心にも思っていないことを言い訳としていますがそれでは「徳」とは何なんでしょうか。

           

           マックス・ウェーベルは『職業としての政治家』という講演の中で政治と倫理との関係を論じ、そのさい心情倫理と責任倫理とを区別している。心情倫理は行為における心情の純粋性を重んじ、行為の結果については問わない。しかるに責任倫理は行為の結果を問題にし、これに対して責任を負うべきものと考える。

          ウェーベルによると、すべての倫理的行為は二つの根本的に異なる格率のもとに立つことが可能である。即ちひとは彼の行為において心情倫理的立場を取ることもできるし、責任倫理的立場を取ることもできる。心情倫理的な格率のもとに自己が正しいと信じる行いをして結果を顧みないか、それとも責任倫理的な格率のもとに自己の行為の結果に対して責任を負うかということは、我々の道徳的態度において深い対立を形作っている。

           ウェーベルの責任倫理の観念は重要な意味を有し得るものである。それは従来の倫理学において結果説といわれるものの新たな評価を可能にするであろう。即ちそこでは行為の結果は単なる功利主義の立場を離れて、責任という道徳の根本概念のもとに置かれる。そしてこれは自己の行為を社会的に理解することことによって必然的となるのである。我々は社会的存在であるが故に、我々の行為の結果に対して責任を責任を負わねばならない。結果を慮るということは個人的立場において必要とされるのではなく、自己の行為の他の人々に及ばす影響を考える社会的立場において要求されるのである。人間は社会的存在として社会に対して責任を負うている。しかるに行為の結果を問わない心情倫理は社会に対して無責任になり易い。

           

           責任は道徳の根本観念である。ウェーベルの責任倫理と心情倫理の区別は、一方が責任を問題にするのに反して他方はこれを問題としないということにあるのではなく、前者が社会に対する責任を問題にするのに反して後者は自己の人格に対する責任を問題にするということにあるとかんがえねばならぬ。

           

           我々は主体として独立なもの、自立的なもの、自由なものである。かような主体は何よりも責任の主体である。我々は自己のいかなる行為の責任をも脱れ得るものではない。自己の行為の責任を他に転化することは自己の人格を放棄することである。我々は常に自己に対して責任を負うている。我々は自己の行為において良心的でなければならない。真の良心は自己の行為の動機についてのみでなく、その行為の結果についても責任を感じるであろう。結果に対する責任を除いて真の責任というものは考えられない。

          行為の結果に対して責任を負うということは単に自己の外部に対して責任を負うことではなく、また自己に対しても責任を負うことである。なぜならすべての行為は自己を形成するという意味をもっているから。自己に対して責任を有するということは自己の形成に対して責任を有するということである。

          shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:47 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

          ポール・ヴァレリー著『精神の危機』

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            ポール・ヴァレリー著『精神の危機』(岩波文庫 2010年5月)

             

            「中庸」に関するポール・ヴァレリーの言葉をここで引用します。

              「思考は極端なるものによってのみ進むが、

                しかし、中庸なるものによってのみ存続する。」

             

             ポール・ヴァレリー著『精神の危機』については、このブログで何回も紹介しています。日本の政治状況の危うさや、世界的な政治危機なかで、読み返しているとまた新たに感じるところもあり、今回は『精神の危機』の「独裁という観念」から以下に引用します。

             

             実践的な政治について、私はほとんど何も知らない。思うに、そこには、私の忌避するものばかりがあるような気がする。それはこの上なく不純な世界に違いない。すなわち、私が一緒にしたくないと思っているものがこの上なく混同されている世界、例えば、獣性と形而上学、力と権利、信仰と利害、現実的なものと演劇的なもの、本能と観念などが混同されている世界である・・・・・。

             

             ここでは、私は読者を前に「独裁」というものがどのようにして発生するかという問題を一考するにとどめたい。

             あらゆる社会システムは多少なりとも自然に反するのである。自然は、刻々、自分の権利を取り戻そうとする。生者、個人、傾向は、それぞれの仕方で、強力な抽象概念装置、法と儀式の網目、一つの組織化された社会を定義する慣習や決め事の体系を乱し、解体しようとする。様々な人々、利益団体、党派や政党は、それぞれの必要と才覚によって、国家の命令や実質を浸食し、解体する。

             考えられるあらゆる政体の下で必ず存在する、存在せずにはいられない濫用・誤用・故障が社会理念の生命原則(すなわち社会理念の信頼度とその力の優位性に対する信念)を変えない限り、世論は色々困惑させられるようなことが起こってもそれほど騒ぐことはない。事件はたちまち吸収されて、それによって、社会制度が危機に瀕したというよりも、むしろ基盤が強固であることを証し立てるのである。

            しかし、一般意識の限界値に達して、大方の国民に、「国家」の無策の責任に帰せられるべき問題を考えずには自分たち個々の問題も考えられないというような事態に至ることがある。したがって、一般状況が個人生活に大きく影響するほど悪化し、公的事象が出来事の翻弄されているように見え、人々や制度への信頼感が失われて、行政機能や業務実態、法律の適用がいい加減になって、依怙贔屓や因習に流れるようになり、諸政党が争って権力の甘い汁を吸い、低級な利権を貪って、権力が提示する理念的な救済手段には目を向けなくなったとき、そうした無秩序と混乱の感覚は、それを身にの受け、そのような解体からはいかなる利益も引き出すことのない人々の心に、必ずや、正反対の状況を思い描かせ、ほどなく、そういう状況を実現するためにすべきことは何かを喚起することになる。

             そうなるともはや政体は以下の三点だけで支えられることになる。すなわち政体の存亡に関わる利害の力、不安感と未知なるものに対する恐れ、そして独自で明確な未来の観念の欠如、あるいは、そうした観念を代表するような人間の不在である。 

             

             独裁が想像裡に描かれるようになるのは、精神が出来事の推移に権威・連続性・統一が認められなくなったときである。反省的意志の存在と組織された知識の統御の標識であるその三つのものが認められないと、精神の反応は必然的に(ほとんど本能的に)独裁を思い描くのである。

             そうした反応は異論の余地のない一つの事実である。ただし、そこには、政治権力の影響が及ぶ範囲や深度に対して過大な幻想が抱かれているふしがないではない。しかし、反省的思考と公的秩序の混乱とが出会ったとき、唯一形成されるのがそれなのだ。意識的か否かを問わず、みんあが独裁を思うのである。各人が心の中で独裁者が生まれつつあるのを感じる。それは一次的で自然発生的な効果で、一種の反射反応である。それによって、現在あるところのものと正反対のものが、議論の余地なき、唯一かつ明確この上ない必要物とし前面に押し出されてくるのだ。それは公的秩序と救済の問題である。この二つのものをなるべく早く、最短距離で何を犠牲にしてでも手に入れなければならない。唯一、一つの自我だけがそれを成し遂げることができる。

             

             要するに、精神が自分を見失い、自分の主要な特性である理知的行動様式や混沌や力の浪費に対する嫌悪感を、政治システムの変動や機能不全の中にもやは見出すことができなくなったとき、精神は必然的にある一つの頭脳の権威が可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。なぜなら、様々な知覚、観念、反応、決断の間に明確な照応関係が把握され、組織され、諸事情に納得できる条件や処置を施すことができるのは、頭脳が一つのときだけに限られるからだ。

             あらゆる政体、あらゆる政府はこうした精神による判断に曝される。権力のとる行動あるいは無策が、精神にとって、あり得ないようなものに思われ、自らの理性の行使と矛盾するように思われると、たちまち、独裁の観念が姿を現す。

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            石川達三著『金環蝕』

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              石川達三著『金環蝕』(岩波現代文庫 2000年)

               

               いまさら石川達三と云っても知らない人が多いと思いますが、作家でブラジル移民集団の姿を描いた『蒼氓』で、1935年に第1回芥川賞を受賞しています。『金環蝕』は自民党政権下での九頭竜川ダム汚職事件をモデルとして、1966年に新潮社より出版され、映画化もされ当時はかなりの話題となりました。

               今、「森友」に対して破格に割安・好条件で国有地払下げをしたのではという追及に端を発した、安倍明恵総理大臣夫人の行動が話題となっています。また、歴代の総理夫人はこのような行動をしていなかったとも言われています。しかしながら、この『金環食』に書かれていることをモデルのある小説として読めば、歴代の総理夫人が全く政治に関与しなかったとは言い切れません。むしろ陰に回って、もっと悪質だったのかもしれません。

               以下『金環蝕』の「首相夫人の名刺」からの引用です。内閣官房長官の秘書の西尾秘書官と電力建設会社総裁の財部総裁とのやり取りです。電力建設会社は政府の付属で、F−川電源開発を担当する建設会社を選ぶ立場にあります。

               

               見ていると西尾秘書官は、用件を記した便箋を丁寧に四つ折りにして封筒に収め、それを内ポケットに入れた。口頭で用向きを伝えたが、財部総裁の手もとに証拠の紙片を残さないように、用心しているのかと思われた。西尾秘書官は、今度は別のポケットから紙入れを取出し、それを総裁の前に押しやりながら、「それから、これを総裁にお渡しするようとのことでした」と言った。

               財部が受け取ってみると、中に名刺が一枚入っていた。「竹田建設のこと、私からもよろしくお願い申し上げます」と書いてあり、印刷した名前は寺田峯子とあった。

               それを見ると総裁はかっと頭に血が登って来るような感じがした。寺田峯子とは、寺田総理大臣の夫人である。あの出しゃ張り女がこんなところまで口を出して来たかと思うと、財部はむらむらと腹が立った。通産大臣の信任を受けて電力建設会社の総裁となったからには、会社の業務に関する限りは何人の溶解をも許すべき筋合いはないのだ。Fー川電源開発は財部総裁の責任において建設される。そこの工事をどこの建設会社にやらせようが、外部から口出しをされる理由はどこにもないのだ。官房長官と云えども発言権はない。いわんや総理夫人などという局外者が、どんな権限を持って総裁に命令をするというのか。

               名刺には、「宜しくお願い申し上げます」と書いてあったが、財部の感情では、これは命令と受け取っていた。それだけ総理夫人という立場は強力であった。この女は官職も何も有るわけではないが、寺田総理と結婚している女であるが故に、世間は彼女の発言に譲歩する。その譲歩を計算に入れて、こうした名刺をよこしたに違いないのだ。

               「総理夫人はたびたび、こういう事をなさいますか」財部は西尾秘書官に聞いた。

              「ときどきご自分の名刺を持っていかせるという事は、あるようです。私はあまり知りませんが、たしか防衛庁長官宛にも名刺をお出だしになりました。軍需物質の納入について、宜しく頼むという様な主旨でした。総理のご郷里の商社の人から頼まれたようです。」

              総理夫人の名刺は、防衛庁長官と云えども無視するわけにはいかない。従って紹介をもらった商社から何千万、あるいは何億という献金が、献金という名の賄賂が、寺田総理に贈られたと思われる。それが総理大臣夫人の内助の功であったのだ。

              多分、星野官房長官は自分の思い付きで、総理夫人寺田峯子に会って事情を訴え、「またひとつ、名刺を書いてくださいませんか」と頼んだことだろう。何億という政治献金と結びついていると聞かされ、夫人は夫の急場を助けるために、いつものように名刺を書いたに違いない。

               

              ■同じく『金環蝕』の「一人の犠牲者」からの引用です。総理夫人と西尾秘書官とのやり取りです。

               「あなたは8月の初めに、星野官房長官のお使いで、電力建設の財部総裁に会いに行って下すったでしょう」夫人はたたみかけて来るような言い方をした。「行って下すったわね」

              「はい・・・参りました」

              「そのとき、総裁宛の私の名刺を持って行ってくださいましたね」

              「はい」

              「その事が、もし世間に知れわたったりしたら、私が非難されるばかりではなくて、総理の政治的生命にもかかわる問題だということも、お分かりの筈ですね」

              「はい」

              「それだけ解かっていらっしゃるのに、なぜあなたはあの事を世間に言いふらしたりなさったの」

              「いいえ、僕は言いふらしたりなんかしていません」

                 中略

              「弁解したって駄目よ。あなたは私の顔に泥を塗って下すったのね。私だけなら我慢もします。総理の名誉は完全に傷つけられました。もしこの噂が広まって、新聞が書き立てたり、野党の方が国会で質問を提出したりしたら、あなたの責任はどういうことになるの。・・・西尾さん、どうなさるおつもり」

              「私は人事に口出しなんか致しませんからね。あなたにどうしろという事は申しませんよ。あなたご自分でお考えになって、一番適当な方法をお取りになることですわね。」

              ■結局、西尾秘書官は自殺することになります。 

              shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:22 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

              『中庸』、パスカル『パンセ』、『アリストテレス倫理学入門』

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                宇野哲人 全訳注『中庸』(講談社学術文庫)

                J・O・アームソン『アリストテレス倫理学入門』(岩波現代文庫)

                世界文学全集11『パスカル・モンテーニュ』(筑摩書房)

                 

                 現在では、世界中で過激な発言、行動、思考がまかり通って敵対的な対立を生み出し、それを阻止しようとする側でも同じように過激な行動に走っています。今必要なのは「寛容」とか「中庸」であると言われながらも、すべての人がそのような気になるのはほとんど不可能なことのようです。

                 東西を問わず、古の哲人たちは「中庸」の必要性を語っていますが、人間はそれに耳を貸そうとしません。「中庸」に関する言葉を幾つか紹介したいと思います。

                先ずは、文字通り『中庸』です。中国古代では四書五経の『大学』『中庸』『論語』『孟子』に入っているほど学問をする上では重要な書籍として扱われてきました。以下は『中庸』からの抜粋です。

                 「偏(かたよ)らざるをこれ中と謂い、易(か)わらざるをこれ庸と謂う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。」

                 「君子は中庸をす。小人は中庸に反す。君子の中庸は、君子にして時に中す。小人の中庸は、小人にして忌憚なきなり。」

                 

                次は『アリストテレス倫理学入門』からの引用です。中庸に関しては主にアリストテレス『ニコマコス倫理学』では第二巻で触れられています。

                 中庸の理論の中心思想は次の通りである。優れた性格とはそれぞれの状況に応じて、その状況にとって最適な程度に情動を感じたり表したりする気質であり、このような気質は、情動の感じ方、表わし方が超過することと不足することとの間に位置する。中庸においては、人は各情動を適切な時に、頻繁に過ぎることもなく間遠に過ぎることもなく、適切な事象に対し、適切な人々に向かい、適切な理由を持ち、適切な方法によって感じを表わす。

                超過の誤りは、時を選ばず、不適切な状況において、正しい理由もなく、不適切な方法で情動を感じ表わすことである。不足の誤りも同様に述べることができる。

                 超過と不足を簡単に言うと、「多すぎる」と「少なすぎる」になる。このために多分多くの読者が、中庸の理論を、あらゆる場合に情動と行動の極端を避けるべきだという「適度の理論」と見做してしまったのであろう。しかし『ニコマコス倫理学』の幾つかの箇所から、この解釈が誤りであることが分かる。たとえば、「恐怖、自信、欲望、怒り、憐れみ等々の快不快は、感じすぎろこともあれば、感じなさすぎることもあり、その両方ともよくない。これらの快不快を、適切な時に、適切な事物に対し、適切な人々に向かい、適切な動機により、適切な方法で感じることが、中庸であると同時に最善であり、これを優れた性格という」

                 

                最後に、パスカルの『パンセ』(松浪信三郎訳)378より引用します。

                 極端な精神は、極端な精神喪失と同様に、狂愚として非難される。中庸以外には何も良いものはない。そのことを決めたのは多数の人々である。人々は、どちらの端を通ってにせよ、中庸から抜け出る者を悪く言う。私は必ずしも中庸に固執しはしないが、そこに置かれることに同意する。私は下の方の端に置かれることを拒絶する。それは、そこが下の方であるからではなく、そこが端であるからである。なぜなら、私は上の方の端に置かれることも、やはり拒絶するであろう。中間から逸脱することは、人間性から逸脱することである。人間の魂の偉大さは、いかにして中間に身を持するかを知る点にある。偉大さは中間から逸脱することにあるどころか、むしろそこから逸脱しないことにある。

                shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:13 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

                吉本隆明『宮沢賢治の世界』 ほか

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                  吉本隆明『宮沢賢治の世界』(筑摩書房 2012年)

                  河合隼雄『猫だましい』(新潮社 2000年)

                  高橋源一郎『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』(集英社 2005年)

                   

                   NHKEテレの『100分de名著』の3月分放送は「宮沢賢治」でした。

                  宮沢賢治と云えば『春と修羅』等の詩人であり、『銀河鉄道の夜』等の童話の作家で、日本では子供から大人まで幅広く親しまれています。しかしながら、一方では宮沢賢治に関する批評・評論・解説本はいずれも難解でわかりにくいものが多いようです。詩も童話もメタファー(隠喩)であり、老若男女を問わず読者一人ひとりが、それぞれの置かれた状況で如何様にも解釈することができる魅力を備えていることが、親しまれるながらも難解なこととに通じているのかもしれません。

                   ここに取り上げた本は、その中ではとても分かりやすく楽しく宮沢賢治の魅力が語られています。先ずは、河合隼雄著『猫だましい』からの引用です。

                   山折哲雄さんが、小学校6年生に対して、宮沢賢治についての授業をした。山折さんは賢治の3つの作品『風の又三郎』、『注文の多い料理店』、『銀河鉄道の夜』を示し、「これらには、共通する問題が出てくるです。なんだと思う?」と子供たちに問いかける。そして、「それはね、風がものすごく大切な役割を果たしているということ。この3つの童話の中心的な大問題は風だということです」と自ら答え、賢治の作品のなかの風の重要性を明らかにしていく。実の賢治の本質をついた授業である。

                   この授業を受けた子どものなかに、「それは猫だ」と言おうと思ったが山折先生が「風」と言ってしまったので。あれっと思った。そうかなと思ったが、先生の話を聞いているうちに、やっぱり「風」と思った、ということです。

                   猫のイメージと風のイメージが、私(河合)の心の中で重なるのを感じたのである。

                  普通だと、猫と風は全く別種と感じられるかも知れない。違うと言えばまったく違ったものである。しかし、風の掴まえどころのなさ、いったいどこから来てどこへ行くのかわからない、優しくもあれば荒々しくもある、少しの隙間からでも入り込んで来る、などという性質は、猫にもそのまま当てはまることだし、賢治の作品の猫たちは、まさにそのような性格を持って登場してくるように思うのである。

                   

                   次に、吉本隆明著『宮沢賢治の世界』の9章「いじめと宮沢賢治」からの引用です。

                   宮沢賢治という人の童話は、ある意味ではほとんど全部がいじめ問題じゃないかということです。それで、いじめ問題ということで、ちょとと絡めて賢治の作品を読みました。すると、いくつかの思いがけないいじめ問題についての考えが宮沢賢治にあるわけです。他のいじめ問題の専門家のような人や、いまのいじめ問題でいろいろと言われている考え方とものすごく違っているところがひとつあります。それは何かと云えば、いじめる方については、あまり何かを云ってないんですが、いじめられる方の人間といいますか、子どもは、要するに、”聖”だと言っていると思います。”聖”というのはつまりセイントといいますか、つまり非常に尊い人だ、尊いものだ、ということを、賢治は言っているように思えます。

                  いじめられるほうが偉いのだというと、ちょっと違いますが、人間として純粋とか、人間以上の何かを持っているんだと言っていると思います。つまり”聖”だと言っている。

                   宮沢さんの童話を、何か特定の主題と結びつけて論ずるのは、本当は違うような気がしますけれども、しかし、宮沢さんの童話のなかには、今日の主題のように、いじめにもし普遍性があるとすれば、普遍的な意味でのいじめを主題にした文学だと思います。

                   

                   最後に、高橋源一郎著『ミヤザワケンジ・グレーテストヒット』について。

                   この本は宮沢賢治の童話を題した24作品が収録されている短編集です。宮沢賢治のトリビュートであると言われていますが、私の読後感としては、その内容からは宮沢賢治に対するオマージュ(尊敬・賛辞)であるとは思えません。しかしながら、2006年に「第16回宮沢賢治賞」を受賞しているということは、それなりの評価を受けているということなのでしょう。

                  shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:20 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

                  河合隼雄『昔話と日本人の心』・『猫だましい』

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                    河合隼雄著『昔話と日本人の心』(岩波書店 1982年)

                         『猫だましい』(新潮社 2000年)

                     

                     このブログで何回か前に河合隼雄の『影の現象学』と『昔話の深層』を取り上げました。この2冊はどちらかと云えば外国の小説や童話・昔話を、特に『昔話の深層』では副題に「ユング心理学とグリム童話」とあるように「グリム童話」を読み込みながら、ユング心理学による分析で解説しています。この2冊を読むと、多くの作家の作品が神話・説話・昔話・童話を何らかの形で影響を受けているのではないかと思われます。

                     『昔話と日本人の心』の「あとがき」で以下のように語っています。

                    昭和52年に『昔話の深層』を出版すると予想外大きい反響があった。この本は昔話に対するユング派の考えを紹介、解説することを目的として書いたので、わが国でよく知られているグリム童話を取り上げ、それを素材として説明をこころみたものである。したがって、その「あとがき」にも記しておいたとおり、自ら日本人として日本の昔話を分析することを是非やってみたいし、やらなければならないと感じていた。

                     日本の昔話について全体として筋の通った見方をすることは、最初のうちはほとんど不可能なことのように思えた。何度も何度も昔話を読んでいるうちに本書に示すように「女性像」に注目することによって筆者なりに筋を通すことができた。もちろんこれはひとつの筋であり、また異なった観点から異なった筋道を見出すことも可能であろう。

                     

                     『猫だましい』で河合隼雄が取り上げた作品は、神話・小説・昔話・童話、そして内外の作品と、猫を主題として取り上げているという以外はまさに多様であります。猫好きではない私でも、ここで取り上げユング心理学による解説・分析を読んでいると興味が湧いてその作品自体を読んでみたくなります。著者も本のなかでこのよう書いています。

                     ある程度は筋を紹介しながら、自分の考えを述べていくより仕方がないのだが、これもあまりやり過ぎると、読者もその原作を読み直そうとする興味を失ってしまうかもしれない。そもそも、このような文章を書いて、一番嬉しいのは、これを読んだので、原作が読みたくなって読んだ、といわれることである。

                    この本で取り上げた作品をここで紹介します。

                     ホフマン『牡猫ムルの人生観』、ペロー『長靴をはいた猫』、ル=グウイン『空飛び猫』、『日本の昔話のなかの猫』、『宮沢健治の作品に出てくる猫』、『怪猫=鍋島猫騒動』、佐野洋子『百万回生きたねこ』、ワンダ・ガアグ『100まんびきのねこ』、ポール・ギャリコ『トマシーナ』、谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』、少女マンガの猫として大島弓子『綿の国星』、コレット『牝猫』

                     

                    以下に、『猫だましい』の第1章「なぜ猫なのか」から引用します。

                     犬よりは猫の方が、「たましいの不可解さ」、とらえどころのなさをはるかに感じさせるように思われる。

                     この科学技術の発展した時代にどうして「たましい」などということを話したがるのかについて、初めに少し触れておきたい。私は心理療法家という仕事をしていて、多くの人の悩みの相談を受けながら、それらの悩みに共通する問題があるように感じていた。それを私なりの言葉で表現すると、「関係性の喪失」ということになる。関係といわず、わざわざ関係性と言うのは、親子関係、師弟関係、医者・患者関係などと「関係」という言葉によって表されながら、そこにほんとうに感じられる感じられる関係として実感されることを示したいと思うからである。

                     近代はものごとを割り切って考えることによって、ずいぶんと生活の便利さを獲得するようになった。しかし、その分だけ「関係性の喪失」に悩まなければならなくなった。あらゆるところで、人間関係の希薄化を嘆く声が聞こえてくる。それはすなわち、「たましいの喪失」である。

                     猫を「たましいの顕現」と呼びたいほどに感じる時もある。「たましい」はそれ自体取り出すことはできない。しかし、そのはたらきはいろいろと人間の五官に感じられる存在として示される。猫はそれらのなかでも、相当に「たましい」に関連付けられやすい生き物なのである。

                    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:01 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

                    夏目漱石『漱石 傑作講演集』・『漱石 人生論集』

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                      夏目漱石『漱石 傑作講演集』(ランダムハウス講談社 2007年)

                          『漱石 人生論集』(講談社文芸文庫 2014年)

                       

                       日本人なら誰でも知っている文学者と云えばやはり夏目漱石だと思いますが、誕生が1867年2月9日で、亡くなったのが1916年12月9日、享年50歳と意外に短い一生です。2016年が生誕150年、2017年が没後100年で、昨年から今年にかけて夏目漱石の作品が新たに出版されたりして何かと話題も多いようです。

                       私も漱石の作品で読んだと言えば、確かな記憶では『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『草枕』『こころ』ぐらいいですが、高校の国語の時間に夏目漱石といえば「則天去私」「惻隠の情」と教わったことは今でも覚えています。

                       『漱石 傑作講演集』も『漱石 人生論集』も、小説とは違った面白さがありますが、最初に『傑作講演集』の目次を紹介しますと、「道楽と職業」「現代日本の開化」「中味と形式」「文芸と道徳」「文芸と哲学的基礎」「模倣と独立」「おはなし」「私の個人主義」の8編で、今回は、「文芸と哲学的基礎」から引用します。

                       

                       ここいらで前段で述べた事を総括しておいて、それから先へ進行しようと思います。(1)吾々は生きたいという念々に支配せられております。意識の方から云うと、意識には連続的傾向がある。(2)この傾向が選択を生じる。(3)選択が理想を孕む。(4)次にこの理想を実現して意識が特殊なる連続的方向を取る。(5)その結果として意識が分化する。明瞭になる、統一せられる。(6)一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。(7)一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える。(8)時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。(9)時間内に起こる一定の連続を統一して因果の名を附して、因果の法則を抽象する。

                       まずざっと、こんなものであります。してみると空間というものも時間というものも因果の法則というものも、皆便宜上の仮定であって、真実の存在しているものではない。これは私がそう云うのです。諸君がそうでないと云えばそれでもよい。ご随意である。とにかく今日だけはそう仮定したいしたいものだと思います。そうでないと話が進行しません。

                      なぜこんな余計な仮定をして平気でいるかというと、そこが人間の下司な了簡で、我々はただ生きたい生きたいとのみ考えている。生きさえすればどんな嘘でも吐く。どんな間違いでも構わずに遂行する。真にあさましいものどもでありますから、空間があるとしないとしないと生活上不便だと思うと、すぐに空間を捏造してしまう。時間がないと不都合だと勘付くと、よろしい、それじゃ時間を製造してやろうと、すぐ時間を製造してしまいます。だからいろいろな抽象や種々な仮定やは、みな背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります。そうして嘘からでた真実であります。

                       

                       我に対する物を空間に放射して、分化作用でこれを精細に区別していくます。同時に我に対しても亦同様の分化作用を発展させて、身体と精神とを区別する。その精神作用を知、情、意の三つに区分します。それからこの知を割り、情を割り、その作用の特性によってまたいろいろに識別していきます。この方面は主として心理学者が専門として担当しているから、これらの人に聞くのが一番わかりやすい。もっとも心理学者のやることは心の作用を分解して抽象してしまう弊がある。知情意は当を得た分類かも知れないが、三つの作用が各独立して、他と交渉なく働いているものではありません。心の作用はどんなに立ち入って細かい点に至っても、これを全体として見るとやはり知情意の三つを含んでいる場合が多い。だからこの三つを截然と区分するのは全く便宜上の抽象である。この抽象法を用いないで、しかも極度の分化作用になる微細なる心の働きを全体として写して人に示すのはおもに文学者がやっている。

                       

                      shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:14 * comments(0) * trackbacks(0) * - -
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