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倉田百三著『出家とその弟子』その2

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     倉田百三著『出家とその弟子』

    親鸞聖人は90歳で亡くなられましたが、当時としてはまさに長寿を全うしたともいえます。その死の床にあって最後に弟子たちに伝えたかったことを、倉田百三はあまりにも真摯に、キリスト教の聖書の言葉のように語らせているのではと感じます。
    以下『出家とその弟子』から臨終の場面での親鸞聖人の言葉を引用します。

     親鸞: だから皆よくおぼえて置き。臨終の美しいということも救いの証ではないのだよ。わしのように、こうして柔らかな寝床の上で、懇ろな看護を受けて、愛する弟子たちにかこまれて、安らかに死ぬことができるのは、恵まれているのだよ。わしは身にあまる、もったいない気がする。わしはそれに相当しているとは思われないのだ。だが世にはさまざまな死に方をする人があることを忘れてはならないよ。
    刀で斬られて死ぬ人もある。火の難、水の難で死ぬ人もある。飢えと凍えで路傍にゆき仆れになる者もある。また思いも設けぬ偶然の出来事で、途方もない、殆ど信じられぬような死に方をする者もある。・・・・・・・・・・・・。或いはつい先刻まで快活な冗談など言いながら働いていた大工が、踏みはずして屋根から落ちて死ぬこともある。その突然で偶然なことは涙をこぼす暇さえも与えないような残酷なのがある。皮肉な感じさえ起こさせるのがある。
    あの観経にある下品往生というのは、手は虚空を握り、毛穴から白い汗が流れて目も当てられぬ苦悶の臨終だそうな。恐ろしいことじゃ。業(ごう)によっては何人がそのような死に方をするかもはかられるのじゃ。だがそのような臨終はしても、仏様を信じているならば、助けていただくことは確かなのじゃ。救いは機にかかわらず確立しているのじゃ。信心には一切の証はないのじゃ。これがわしが皆にする最後の説教じゃ。
    わしがこれを云うのは人間の心ほど成心を去って、素直になり難いものはないことをよく知っているからじゃ。素直な心になってくれ。ものごとを信じる明るい心になってくれ。信じて欺されるは、真のものを疑うよりどれ程優っているだろう。何故人間は疑い深いのであろう。永い間互いを欺したり、欺されたりし過ぎたからだ。
    もしこの世が浄土で、未だ一度も偽りというものが存在したことがないならば、誰も疑うことは無いであろう。信じている心には祝福がある。疑う心には呪詛がある。もし魂の影法師が映るものならば、鬼の姿でも映るのであろう。信じてくれ、仏様の愛を、そして善の勝利を。
    わしは今不思議な地位に立っている。わしの後ろには九十年の生涯の光景が横たわっている。そして前にはあの世の予感が充ちている。・・・・・・・・・・
     なにもかもよかったのだな。わしのつくった過ちもよかったのだな。わしに加えられた傷もよかったのだな。行きずりにふと挨拶えお交わした旅の人も、何心なく摘みとった路のべの草花もみなわしとは離れられない縁があったのだな。みなわしの運命を成し遂げるために役立ったのだな。

     親鸞: みんな仲よく暮らしてくれ。わしの亡くなった後は皆よく力を合わせて法のために働いてくれ。決して争うな。どのような苦しい、不合理な気のすることがあっても、仏と人とに呪いをおくるな。凡て祝せよ。悲しみを耐え忍べよ。忍耐は徳を己のものとするのじゃ。隣人を愛せよ。旅人を懇ろにせよ。仏の名によって皆繋がり合ってくれ。
    自分らがして欲しいように、人にもしてしてやらぬのは間違いじゃ。裁く心と誓う心は悪魔から出るのじゃ。人の僕(しもべ)になれ。人の足を洗ってやれ。履の紐をむすんでやれ。ほむべき仏さま。
    shr-horiuchi * 心に残る言葉 * 20:33 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

    倉田百三著『出家とその弟子』

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       『出家とその弟子』
      著 者:倉田百三

      今年は浄土真宗の開祖・親鸞聖人の750回大遠忌の年に当たり、親鸞聖人に関する本もここ数年、多数出版されています。
      このブログでも以前にもかって出版された親鸞聖人に関する本の紹介もしていますが、今回は倉田百三の書いた戯曲『出家とその弟子』から引用します。この戯曲の内容としては『歎異抄』に書かれている教えがよく取り入れられていると思います。
       
       親鸞: 北嶺南都で積んだ学問では出離の道は得られなかったのです。私は学問を捨てたのです。そして念仏申して助かるべしと善き師の仰せを承って、信ずる外には別の仔細はないのです。
       同行三: それは真証で御座りますか。
       親鸞: 何しに虚言を申しましょう。思わせぶりだと思召しなさるな。凡そ真理は単純なものです。救いの手続きとして、外から見れば念仏程簡単なものはありませぬ。ただの六字だでな。だが内からその心持に分け入れば、限りもなく深く複雑なものです。恐らくあなた方が一生かかってもその底に達する事はありますまい。人生の愛と運命と悲哀と、あなた方の一生涯かかって体験なさる内容を一つの簡単な形に煮詰めて盛り込んであるのです。人生の歩みの道すがら、振り返る毎にこの六字の深さが見えて行くのです。
      それを智慧が増すと申すのじゃ。経書の教養を究めるのとは別事です。知識が増えても心の眼は明るくならぬのでな。若し銘々方が親鸞に相談なさるなら、御熟知の唱名でよろしいと申しましょう。教釈の聴きぼこりは以ての外じゃ。それよりも銘々に念仏の心持を味わう事を心掛けなさるがよい。
      人を愛しなさい。許しなさい。悲しみを堪え忍びなさい。業の催しに苦しみなさい。運命を直視なさい。その時人生の様々の事象を見る眼が濡れて来ます。仏様のお慈悲が有り難く心に沁むようになります。南無阿弥陀仏がしっくりと心にはまります。それが本当の学問と申すものじゃ。
       同行五: 畏れ入りました。純な私たちにもよく腹に入りました。極楽へ参らせて戴くためには、ただ念仏すればよいので御座いますな。ただそれだけでよいので御座いますな。
       同行一: 只一つ私にお聞かせ下さい。その念仏して浄土に生れると云うのは何か証拠でもあるのですか。
       親鸞: 信心に証拠はありません。証拠を求るなら信じているのではありません。弥陀の本願真におわしまさば、釈尊の教説虚言ではありますまい。釈尊の教説虚言ならずば、善導の御釈偽りでございますまい。善導の御釈偽りならずば、法然上人の御勧化(ごかんげ)よも空言(そらごと)ではありますまい。
      いや、たとえ法然上人に騙されて地獄に堕ちようとも私は怨みる気はありません。私は弥陀の本願がないならば、どうせ地獄の外に行く所は無い身です。どうせ助からぬ罪人ですもの。そうです。私の心を著しく表現するなら、念仏は本当に極楽に生るる種なのか、それとも地獄に堕ちる因なのか、私はまったく知らぬと言ってもよい。私は何もかもお任せするのじゃ。私の希望、いのち、私そのものを仏様に預けるのじゃ。何処へなとつれて行ってくださうでしょうよ。
       同行一: 私は恥ずかしい気が致します。私の心の浅ましさ、証拠が無くては信じないとは何という卑しい事で御座いましょう。
       同行二: 私の心の自力が日に晒されるように露われて参りました。
       同行三: 様々の塀を作って仏のお慈悲を拒んでいたのに気が付きました。
       同行四: まだまだ任せきってはいないのでした。
       同行五: 心の内の甘えるもの、媚びるものが崩れて行くような気がします。
       同行六: 思えばたのもしい仏の御誓いで御座います。   
      shr-horiuchi * 心に残る言葉 * 19:53 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

      坂村真民『随筆集 めぐりあいのふしぎ』

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         『随筆集 めぐりあいのふしぎ』(サンマーク出版 2009年)
        著 者:坂村真民

        坂村真民氏の心温まる詩と言葉を『めぐりあいのふしぎ』から引用します。

        「生かされて 生きる」
        という何ともいえない喜びに満ちた生き方は、そうやすやすとやってくるものではない。いくら口で言っていても、病気をしたり、失敗をしたりすると、すぐくずれる。神も仏もないものだと言ったりする。人間というものは、葦のように弱いのである。そのことは、長い人生を経てきた人は誰もが経験し、知り尽くしている。
        「生かされて 生きる」
        ということを、イエスはいみじくも、まことに美しい言葉で言っている。
        「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養いたもう。」
        と。また私の好きな一遍上人の言葉にも、
        「念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸宗の悟りをも捨て、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にもっともかない候へ。」
        とある。ここでいう捨てるとは、任せることである。一切を任せて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にかなうものだと言っておられるのである。なかなかできないことではあるが、心を切り換えれば、今すぐ即座にでもできることである。私の詩に『延命の願い』というのがある。

        わたしは延命の願いをしました
        まず始めは啄木の年を越えることでした
        それを越えることができた時
        第二の願いをしました
        それは子規の年を越えることでした
        それを越えた時
        第三の願いをしました
        お父さん
        あなたの年を越えることでした
        それはわたしの必死の願いでした
        ところがそれも越えることができたのです
        では第四の願いは?
        それはお母さん
        あなたのお年に達することです
        もしそれを越えることができたら
        最後の願いをしたいのです
        それは世尊と同じ齢(よわい)まで生きたいことです
        これ以上決して願いはかけませんからお守りください
              (享年、石川啄木27歳、正岡子規36歳、父42歳、母72歳、世尊80歳)
        これはわたしが若い時から体が弱かったからである。だから今日まで生きてきたことを考えると、自分で生きてきたとはまったく考えない。大いなるものに守られ導かれて生きてきたという体験が、わたしの信仰となっているのである。
        かって厳しい求道の果て、失明寸前まで追い込まれた。また三人の医者から開腹手術の診断が下された。しかし不思議なおん守りによって視力も回復し、手術もせずに治った。このことからわたしは、

        生かされて生きるということは
        任せきって生きるということであり
        任せきって生きるということは
        自分を無にして生きるということであり
        自分を無にして生きるということは
        自分の志す一筋の道にいのちをかけ
        更に他のために己れの力を
        傾け尽くすということである

        ということを、はっきりと自覚した。
        shr-horiuchi * 心に残る言葉 * 20:10 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

        『内村鑑三所感集』その2

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           『内村鑑三所感集』(岩波文庫 昭和48年)

          『内村鑑三所感集』からの引用を続けます。

            ”道徳と信用と富”
           道徳の人に認められしもの、これを信用といい、信用の硬化せしもの、これを富という。道徳なくして信用あるなし、信用なくして真正の富あるなし。しかも道徳は容易に人に認められず、信用は容易に富と化せず。
          道徳が化して富となるまでに多くの時日と忍耐とを要す、しかれども道徳はついに富と化せざれば止まざるものなり。われら善を播きて、何人かその結果たる富を獲り取らざるをえず。道徳を唱えてこれを行う者もまた国家を富ますものなり、しかり、かかる者のみ真に国家を富ます者なり。

            ”武士道と宣教師”
           聞く、真の武士道は敵に勝つの道にあらず、人に対し自己を持するの道なりと。
          清廉、潔白、寛忍、宥恕、勝も立派に勝ち、負けるも立派に負くるの道なりという。もししからんには武士道の外国宣教師によりて伝えられしわが国今日のキリスト教に優るや万々なり。
          宣教師的キリスト教は何よりもまず成功を欲望す、多数に信者を作らんとし、大なる会堂を建てんとし、社会に勢力を植えんとす。聖く失敗する祝福のごときはその全然解しえざるところなり。余輩はナザレのイエスの弟子としてまた日本武士として、外国宣教師とその伝うる宗教とに反対する者なり。

            ”知らず知る”
           われはいかにしてわが事業を継続しうるやを知らず、われはいかにしてわが子女を教育しうるやを知らず、われはいかにしてわが老後を養いうるやを知らず、われはもちろん、いつ、いかにして、死するやを知らず、またわが子孫のいかになりゆくやを知らず。
          しかれども、われは知る、わが全生涯のかれの恩恵のうちにあることを、万物ことごとく働きてわがために益をなすことを、われとわが愛する者との永久にからの記憶に存することを。しかしてわれはかく知るがゆえにわが将来につきて知らずといえども悲しまず、万事をかれに委ねまつりて福祉(さいわい)をのみ期待しつつ働くなり。

            ”幸不幸”
           この世にありて最も幸福なることは善をなして栄えざることなり。その次に幸福なることは善をなして栄ゆることなり。第三に幸福なることは悪をなして栄えざることなり。しかして最も不幸なることは悪をなして栄ゆることなり。
          第一の場合においては人は天国を譲り受くるの希望あり、第二の場合においてはかれは現世を楽しむをうべし、第三の場合においてはかれは過去の罪を償うをうべし、しかして最後の場合においてはかれは地獄に堕ちるの危険あり。
          いずれにしろ困窮は安全にして繁栄は危険なり。否、人は前者を忌みて後者を羨むべからざるなり。

            ”いわゆる進歩”
           世のいわゆる進歩とは富源の開発なり、快楽の増進なり、ただむこうみずに進むことなり。何に向かいて進むかを知らず、ただ前に牽かれ後ろより押されてやむをえず進むなり。
          そのはたして進歩なるや退歩なるやを知らず、ただ世がこれを進歩と称するがゆえに、しか称するなり。あるいは地獄の底に向かいての進歩なるやも計られず、多分しからん。しかれども静止するあたわざるがゆえにやむをえず進むなり。
          不信者はもちろん進むなり、信者も不信とともに進むなり。煙も響きと電光の閃きとをもって進むなり。

             ”しかしていかん?”
           なんじはなんじの目的を達してこの世において成功せりという、少しく財産を作りたりという、貴顕紳士の知遇を得たりという、少しく名を挙ぐるをえて人の賞賛を博せりという。
          しかしていかん、なんじとなんじの造り主との関係いかん、なんじの永世の希望いかん、なんじの天国に入るの資質いかん。なんじの俗才は長けてなんじの霊魂は衰えしにあらずや、なんじの肉体は肥えてなんじの霊魂は痩せしにあらずや。
          なんじは成功せりという。しかしていかん。ああ、しかしていかん?

            ”人の欠乏”
           今日の日本に政治家あり、しかれども人あるなし。実業家あり、しかれども人あるなし。教育家あり、しかれども人あるなし。学者あり、しかれども人あるなし。芸術家あり、しかれども人あるなし。すべての人物と才能とあり、しかれども神と交わり永遠に生き、隣人を愛し真理喜ぶ神の子たる資格を供えたる人あるなし。
          日本国の大欠乏は人なり、その大危険はこの欠乏なり。われらは今や日本国に人の起こらんことを祈らざるべからず。

            ”欲しきもの”
           欲しきものは富貴ではない、名誉ではない、学識ではない、善き心である、常に感謝する心である、常に満足する心である、人のわれに対して罪を犯す者を自由に赦しうる心である。貪らざる心である、寛大なる心である、わが右の手のなす善を左の手が知らざるの心である。
          神が人に賜うものの中に善き心のごとく貴きものはない、これを賜わりて人は最大の恩恵に浴したのである。しかして神はこれを祈求むる者に裕かにこれを賜うのである。われに善き心を与えたまえという祈祷は即座に聴かるるのである。
          shr-horiuchi * 心に残る言葉 * 19:51 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

          『内村鑑三所感集』より

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             『内村鑑三所感集』(岩波文庫 昭和48年)
            著 者:内村鑑三
            編 集:鈴木俊郎

            内村鑑三はおそらく、明治期において最高のキリスト者であり、信仰家であり、日本人らしい日本人であったよです。この所感集は基本的にはキリスト者の立場から書かれていますが、武士道につながる面が多々あります。
            以下『内村鑑三所感集』からの引用です。

              ”善きこと三つ”
             健康のみが善きことではない、病気もまた善きことである、同情と推察とはより多くの病気のときに起こるものであって、多年の怨恨も一朝の病気のために解けることがある。
             得することのみが善きことではない、損することもまた善きことである、財貨の損失によって利欲のおおいが取り去られ、かって見えざりし神と天国とがそれがために心の眼に映ずるにいたることがある。
             愛せらるることのみが善きことではない、憎まるることもまた善きことである、民の與望(よぼう)なるものが吾人の身を去るに及んで、吾人は始めて死と未来に望みを嘱して、神と聖徒とを友とするに至ることがある。

              ”最も貴きもの”
             富と権とに優って貴きものは智識なり、知識に優って貴きものは道徳なり、道徳に優って貴きものは信仰なり、信仰に優って貴きものは愛心なり。愛において強固にして信仰は確実なり、道徳は高尚なり、智識は該博なり、しかして富も権もついにまた愛心の命に奉ずるにいたる。万有をその中心において握らんと欲せば吾人は愛において富饒なる者とならざるべからず。

              ”信仰と労働”
             信仰は信仰によりて維持するあたわず、信仰は労働によりてのみよく維持するをうべし。信仰は根にして労働は枝なり。前者は養汁を供し、後者はこれを消化す。枝葉なくして汁液は腐敗して毒素を醸す、労働なくして信仰は堕落して懐疑を生ず。信仰維持に必要なるものはより多くの信仰にあらず、手と脳とをもってする労働なり。労働なくして肉体は飢え霊魂は死す。労働は肉体維持のためのみに必要なるものにあらざるなり。

              ”恩恵としての患難”
             患難、もし自己の罪の結果ならば自己の罪を贖うために利益あり、もし他者の罪の結果ならば他者の罪を贖うために利益あり。神は無益に患難を下し給わず、これを自己かまたは他者を救うために下し給う。患難はたしかに神の恩恵なり、これなくしてわれも人も罪悪を去りて正義の神に帰るあたわず。

              ”小学者と小商人”
             大学を卒えて少しく知識を得たればとてすでに宗教の要なしといい、商業に従事し少しく財を作りたればとてすでに宗教の要なしという。小なる頭脳は些少の知識を持ってこれを充たすをうべし、小なる欲心は些少の財貨を持ってこれを溢らすをうべし。小学者となり、小商人となりたればとて神よりもかしこく、神よりも富めりと信ず。誰かいう、希望は青年に存すと、余輩は今の青年につきて失望せること今日まで幾回なるかを知らず。
            shr-horiuchi * 心に残る言葉 * 20:01 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

            タゴール『詩集:ギタンジョリ』より

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               『タゴール:人類の知的遺産』(講談社 昭和56年)

              タゴールはこの『詩集:ギタンジョリ』で1913年にノーベル文学賞を受賞しています。
              新春に美しい詩を『ギタンジョリ』より引用します。

                   5
              私に内面を顕して下さい ああ 内の内なるものを。
              汚れないものに、照り輝くものに ああ 美しいものにしてください。
              目覚めさせ、高揚させて下さい、ああ 恐れないものにして下さい。
              ああ 幸いなるものに、活動的なものに、疑いのないものにして下さい。
              私の内面を顕してください。 ああ、内の内なるものを。

              ああ、すべてのものと結んで下さい。 かせから 解き放して下さい。
              すべての行為に、勤しませて下さい。 あなたの静かな調べよ!
              蓮の花にも似た あなたの足に、 私の心を 憩わせて下さい。
              歓喜に溢れさせて下さい。 歓びに ああ 歓びに
              私の内面を顕して下さい ああ 内の内なるものを。

                   6
              愛、生命、香り、光、歓喜、戦慄に 天地すべて 満ち溢れ 
              あなたの汚れない 不死の酒が 滴り落ちる。
              今、いたるところ、すべてのくびきが壊れ、 歓喜が姿をあらわし 目覚める。
              生は なみなみと 神酒を満たした。

              私の心は
              自らの蜜を すべてあなたの足もとに 捧げながら 滴たるほど 幸福の汁液に満ち
              蓮の花のように この上もない歓びに 溢れ咲いていた。 
              心の境で 寛やかな暁に 映える色の美しさが 静かな光の中に 目覚めた。 

                   107
              すべての中で 最も低いものたち、 貧しい中の貧しいものたちがいるところで、
              誰よりも後に 誰よりも下に 一切を失ったものたちの只中に あなたがいらっしゃる。
              私があなたに 深々と礼をして、御足に触れようとしても 
              私の礼は あなたの御足にとどくことなく、どこで止まってしまうのだろうーーー
              あなたの御足は 侮られている人々と共にあり、だが 私の礼は、 そこまで達しない。
              誰よりも後に 誰よりも下に すべてを失ったものたちの只中に あなたはいらっしゃる。

              誰よりも後に   誰よりも下に すべてを失ったものたちの只中に 
              あなたが、 飾りのない 貧しく乏しい装いをしているところまで、
              私の高慢は達することができない
              富と名誉に 満ちているところに 私は あなたと共にいたいーーーー
              あなたが 友のいないものの部屋で 友となっているところまで、
              私の心は 降りていけない。
              誰よりも後に 誰よりも下に すべてを失ったものたちの只中に あなたはいらっしゃる。    
              shr-horiuchi * 心に残る言葉 * 21:52 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

              アンドレ・ゴルツ『また君に恋をした』

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                 『また君に恋をした』(水声社 2010年10月)
                著 者:アンドレ・ゴルツ
                訳 者:杉村裕史

                歌謡曲では、この本の題名とよく似た『まだ君に恋してる』がヒットしました。
                またいつまでも夫婦仲の良いことを、『比翼の鳥、連理の枝』と言いますし、
                もっとわかりやすくは『おまえ百まで、わしゃ九十九まで、共に白髪のはえるまで』とも言いますが、この本に書かれているように、晩年になってもこのようなことが自分の奥さんに言えるか悩むところです。

                 難病で病弱となった妻ドリーヌの八十二歳の誕生日を挟んだ2006年3月21日から6月6日の間に、著者が妻ドリーヌにあてた手紙というスタイルで書かれたまさに晩年のラブレターです。
                『また君に恋してる』から書き出しの文章と、最後の文章を引用します。

                 君はもうすぐ82歳になる。身長は6センチも縮み、体重は四十五キロしかない。それでも変わらず美しく、優雅で、いとおしい。僕たちは一緒に暮らし始めて五十八年になる。しかし今ほど君を愛したことはない。僕の胸のここにはぽっかりっと穴が空いていて、僕に寄り添ってくれる君の温かい身体だけがそれを埋めている。

                 僕たちの出会いの頃に思いを馳せるのと同様に、今ここにいる君に思いを寄せて、その思いを君に感じてもらいたい。君は僕に君の人生のすべてを、君のすべてを僕にくれた。残された時間の続く限り、僕のすべてを君に捧げることができればそうしたい。
                 君はちょうど八十二歳になったばかり。それでも変わらず美しく、優雅で、いとおしい。一緒に暮らし始めて五十八年になるけれど、今ほど君を愛したことはない。
                最近また、君に恋をした。
                僕の胸のここには、再びぽっかりと穴が空いていて、それを埋めてくれるのは僕に寄り添ってくれる君の身体だけだ。夜がくると時々、誰もいない街道、空ろな風景の中、霊柩車の後ろを歩いていく一人の男のシルエットを見ることがある。僕がその男だ。霊柩車が運んでいくのは君。君が荼毘に付されるのは見たくない。遺骨の入った骨壺など受け取りたくない。
                キャスリーン・フェリアが「世界は空っぽ、私はもう生きていたくない」と歌うのが聞こえてきた。そこで僕は目覚める。
                君の寝息を確かめ、君の髪にそっと触れる。僕たちは二人とも、どちらかが先に死んだら、その先を生き延びたくはない。叶わないとはいえ、もう一度人生を送れるならば二人で一緒に送りたい。とよく語り合っていた。

                 2006年9月、フランスでこの本を出版した一年後に、究極の愛の物語の、その最終章は衝撃的な結末を迎える。2007年9月22日、二人は並んで眠るように亡くなっているのが発見されました。

                shr-horiuchi * 心に残る言葉 * 20:51 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

                『アッシジの聖フランチェスコの言葉』

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                  『アッシジの聖フランチェスコの言葉』の中から『平和の祈り』をこのブログでもう一度、紹介したいと思います。
                  この『平和の祈り』は、キューブラー・ロス著の『死、それは成長の最終段階』(中公文庫:鈴木晶訳)という本の中で、言葉の一部を替えて『医療に携わる者の祈り』として紹介されています。
                  この”祈りの言葉”は、あらゆる活動に携わる人が、その活動中でふさわしい言葉に替えて表現できると思います。
                  重複している個所もありますが両方を紹介します。

                  『アッシジの聖フランチェスコの祈り』これの訳者は不明です。
                  主よ、
                  あなたの平和を実らせるために、私を用いて下さい。
                  憎しみのあるところに、愛を
                  争いのあるところに、和解を
                  分裂のあるところに、一致を
                  疑いのあるところに、真実を
                  絶望のあるところに、希望を
                  悲しみのあるところに、喜びを
                  闇のあるところに、光を
                  主よ、
                  慰められることより、慰めることを
                  理解されることより、理解することを
                  愛されることより、愛することを
                  私たちが自分を与えるならば、主は自らを私たちに与えられ
                  私たちが人を許すならば、主は私たちを許して下さり
                  私たちも人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるのです。

                  『医療に携わる者の祈り』(聖フランチェスコの祈りをチャールズ・ワイズが翻案)
                  主よ、
                  私をあなたの医療の僕にしてください
                  病には治療を
                  負傷には救助を
                  苦しみには安堵を
                  悲しみには慰めを
                  絶望には希望を
                  そして死には受容と平和とを
                  もたらすことができますように。

                  どうぞこの私が
                  自分を正当化するよりも、他の人々に慰めを与え、
                  服従させれことよりも、他を理解し
                  名誉を求めるよりも、他を愛するようにして下さい。
                  なぜなら、
                  私たちは自分を与えることによって、人々を癒し
                  相手の話を聞くことによって、慰めを与え
                  そして死によって、永遠の生へと生まれ変わるからです。
                  shr-horiuchi * 心に残る言葉 * 20:47 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

                  美智子皇后『橋をかける』

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                    『橋をかける〜子供時代の読書の思い出〜』(文春文庫 2009年)
                    著 者:美智子皇后

                    親による子どもの虐待が毎日のように報道されていますが、美智子皇后の言葉、そしてそのなかで紹介されている詩を、多くの母親に、そして母親になろうとしている女性に、もちろん父親や男性にも読んでもらいたいものです。
                    以下『橋をかける』のなかから、2002年スイスのバーゼル市で開催されたIBBY50周年記念大会の開会式において、皇后さまがお祝いのご挨拶を収録した”バーゼルより〜子どもと本を結ぶ人たちへ〜”からの引用です。

                    子どもが生まれて育っていく日々、私は大きな喜びとともに、いいしれぬ不安を感じることがありました。自分の腕の中の小さな生命は、誰かから預けられた大切な宝のように思われ、私はその頃、子供の生命に対する畏敬(おそれ)と、子供の生命を預かる責任に対する恐れとを、同時に抱いていたのだと思います。
                    子供たちが生きていく世界が、どうか平和なものであってほしいと心の底から祈りながら、世界の不穏な出来事のいずれもが、身近のものに感じられてなりませんでした。

                    貧困をはじめとする経済的、社会的な要因により、本ばかりか文字からすら遠ざけられている子供たちや、紛争の地で日々を不安の中に過ごす子供たちが、あまりに多いことに胸を塞がれます。会員の少なからぬ方々が、このことにつきすでに思いめぐらせ、行動されていることを知り、心強く感じております。
                    私たちはこの子供たちの上にただ涙を落とし、彼らを可哀想な子供としてのみ捉えてはならないでしょう。多くの悲しみや苦しみを知り、これを生き延びてきた子供たちが、彼らの明日の社会を、新たな叡智を持って導くことに希望をかけたいと思います。
                    どうか困難を乗り切っている彼ら一人一人のうちにひそむ大きな可能性を信じ、この子供たちを、皆様方の視野に置き続けてください。
                    子供を育てていた頃に読んだ、忘れられない詩があります。未来に羽ばたこうとしている子供の上に、ただ不安で心弱い母の影を落としてはならない、その子供の未来は、あらゆる可能性を含んでいるのだから、と遠くから語りかけてくれた詩人の言葉は、次のようなものです。

                    『頬』竹内てるよ(1904〜2001)の詩より

                    生まれて何もしらぬ 吾子の頬に
                    母よ 絶望の涙を落とすな

                    その頬は赤く小さい
                    今はただ一つの巴旦杏(はたんきょう)にすぎなくとも
                    いつ 人類のために戦ひに
                    燃えて輝かないということがあろう

                    生まれて何もしらぬ 吾子の頬に
                    母よ 悲しみの涙を落とすな

                    ねむりの中に
                    静かなるまつげのかげを落として
                    今はただ 白絹のようにやわらかくとも
                    いつ 正義のために戦ひに
                    決然とゆがまないといふことがあろうか

                    ただ 自らのよわさといくじなさのために
                    生まれて何もしらぬ 吾子の頬に
                    母よ 絶望の涙を落とすな
                    shr-horiuchi * 心に残る言葉 * 21:30 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

                    北原白秋・詩集『水墨集』より『落葉松』

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                      詩集『水墨集』より『落葉松(からまつ)』
                      著 者:北原白秋

                      暑い夏、夏休みには何処か涼しげな避暑地にでも行ってノンビリしたいものですが、北原白秋の詩『落葉松』を読んでいると軽井沢の涼しさを運んでくれそうです。
                      北原白秋の詩の中では、大好きな詩です。

                        一
                      からまつの林を過ぎて、
                      からまつをしみじみと見き。
                      からまつはさびしかりけり。
                      からまつはさびしかりけり。
                        二
                      からまつの林を出でて、
                      からまつの林に入りぬ。
                      からまつの林に入りて、
                      また細く道はつづけり。
                        三
                      からまつの林の奥も、
                      わが通る道はありけり。
                      霧雨のかかる道なり。
                      山風のかよう道なり。
                        四
                      からまつの林の道は、
                      われのみか、ひともかよひぬ。
                      ほそぼそと通う道なり。
                      さびさびといそぐ道なり。
                        五
                      からまつの林を過ぎて、
                      ゆえしらず歩みひそめつ。
                      からまつはさびしかりけり。
                      からまつとささやきにけり。
                        六
                      からまつの林を出でて、
                      浅間嶺にけぶり立つ見つ。
                      浅間嶺にけぶり立つ見つ。
                      からまつのまたそのうえに。
                        七
                      からまつの林の雨は、
                      さびしけどいよよしづけし。
                      かんこ鳥鳴けるのみなる。
                      からまつの濡るるのみなる。
                        八
                      世の中よ、あわれなりけり。
                      常なけどうれしかりけり。
                      山川に山がはの音、
                      からまつにからまつの風。
                      shr-horiuchi * 心に残る言葉 * 21:24 * comments(0) * trackbacks(0) * - -
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