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サミュエル・ハチントン『分断されるアメリカ』、マレー『階級断絶社会アメリカ』

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    『分断されるアメリカ ナショナル・アイデンティティの危機』(集英社 2004年)

      著 者:サミュエル・ハチントン  訳者:鈴木主税

    『階級断絶社会・アメリカ 新上流と新下流の出現』(草思社 2013年)

      著 者:チャールズ・マレー  訳 者:橘明美

     

     アメリカ大統領の就任式が行われ、トランプ氏が正式に第45代大統領になりました。トランプ大統領の政策がアメリカにとってまた世界にとって吉と出るか凶と出るかは分かりませんが、その「予測不可能」な政策に不安が残されていることは間違いありません。また、アメリカ合衆国内部でも、国民の間に分断、断絶が拡大することが懸念されています。

     以下はサミュエル・ハチントンの『分断されるアメリカ』からの引用ですが、原題は「Who are We?(われわれは何者なのか?)」と、アメリカのナショナル・アイデンティティの危機から発する分断について語る中で、なかなか賛成しにくいところもありますが、現状分析としてはこのような考えもあると参考になります。

     

     1990年代に、アメリカは移民と同化、多文化主義と多様性、人種間の関係とアファーマティブ・アクション、公共の場における宗教、二言語併用教育、学校及び大学のカリキュラム、学校での祈りと妊娠中絶、市民権の意味と国民性、アメリカの選挙への外圧、治外法権の行使、および国の内外にいるディアスポラの政治的役割の増加について、激しい議論を戦わせた。こうした問題のすべての根底にあるのは、ナショナル・アイデンティティの問題だ。これらのどの問題にも、そのほぼどんな立場にも、アイデンティティに関する何らかの前提が含まれているのである。

     

     アイデンティティは狭くもなり広くもなり、最も顕著なアイデンティティの範囲も、置れた状況しだいで変わる。「あなた」と「私」は、「彼ら」が登場すれば「われわれ」になる。

     

     集団の自己中心的傾向は正当化に繋がる。われわれの方法は、彼らよりも優れているという考えだ。相手のグループのメンバーも同じような過程をたどるので、相反する正当化の主張は競争へと発展する。そうなれば、われわれの方式の方が彼らよりも優れているところを示さなければならない。競争は反目を生み、最初はわずかな違いに過ぎなかったものも、より強烈で根本的な差へと広がっていく。固定観念が生まれ、対抗勢力は悪魔呼ばわりされ、他者は敵に化けるのである。

     敵の必要性は人間の社会集団のあいだで、またその内部で、争いが絶えないことの説明にはなるが、それでは争いの形態と舞台は説明されない。競争と争いは、実は同じ世界または舞台における統一体のあいだでのみ起こり得る。あるいみでは、敵はわれわれに似ていなければならないのだ。

     

     反応としてきわめて起こりやすいのは、白人男性を中心とした排他的な社会政治学上の動きが現れることだ。そのほとんどが労働者階級か中流階級であり、こうした変化と自分たちの社会・経済的な地位を低下させると考えるものに、それが正しいかどうかは別として、歯止めをかけようと試みる人々である。あるいは、移民や他国のせいで職を失い、文化が堕落し、言語を変えさせられ、国への伝統的な帰属意識を阻まれ、消失さへさせられることに抵抗する人々だ。

     そうした動きは人種面でも文化面でも発生し、反ヒスパニック、反黒人、反移民の運動となり得る。それらは過去においてやはりアメリカのアイデンティティを形作るのに役立ってきた数々の排他的人種主義、および排外的な運動の現代版となるだろう。こうした特徴を共有する社会運動や政治団体、識者の傾向、反体制派はそれぞれ異なっているが、そこにはなお「ホワイト・ネイティビズ」の枠でくくるのに充分な共通点がある。

     この呼称の「ホワイト」という言葉は、白人以外の人種がこうした運動に加わらないことを意味するのではなく、またこれらの運動が人種問題だけに特化しているという意味でもない。それらが言わんとするところは、そのメンバーは圧倒的に白人が多く、彼らが「ホワイト・アメリカン」と考えるものの保護または復活が中心的な目的である可能性が高いということだ。

     

     ナショナル・アイデンティティに影響する内政および外交政策に関する問題で、主要な機関の指導者と大衆の間に広がる差異は、階級や宗派、人種、宗教、民族による区分を超えた重大な文化フォルトラインを形成している。政府の中でも民間においても、アメリカの支配層はさまざまなかたちで、アメリカの大衆からかけ離れている。アメリカは政治的には民主主義であり続ける。なぜなら、重要な公職が自由で公正な選挙を通じて選ばれるからだ。だが、いろいろな意味でそれは選挙民を代表しない民主主義と化した。なにしろ、重要な問題では、とりわけナショナル・アイデンティティに関する問題では、指導者たちがアメリカの国民の見解とは異なる法律を通過させ、施行するからだ。それにともなって、アメリカの国民は政治と政府からますます疎外されていった。

     

     アメリカが世界となるか、世界がアメリカとなるのか。アメリカはアメリカのままなのか。世界主義か? 帝国主義か? ナショナリズムか?

    アメリカが何を選択するかが、国としての将来と、世界の将来を決めるだろう。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 22:52 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

    島尾敏雄著『死の棘』、梯久美子著『狂うひと』

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      島尾敏雄著『死の棘』(新潮社 昭和52年9月30日発行)

       

       梯久美子さんのノンフィクション『狂うひと〜「死の棘」の妻・島尾ミホ』が昨年・平成28年10月に出版され、多くのマスコミの関心を集めて書評蘭でも取り上げられ話題となりました。その理由の一つは、島尾敏雄著『死の棘』に書かれた、著者・島尾敏雄とその妻・島尾ミホの狂ともいえる壮絶な夫婦関係にあったのではと思います。

       私自身は、まだ『狂うひと』を読んではいないのですが、『死の棘』が出版された時に、著者が島尾敏雄であること、そして『死の棘』という書名に惹かれて購入し読み始めてはみたものの、読み通すことができずに今日まで本箱の片隅に放置していました。今になって読み通して、『狂うひと』を読むべきかも読まざるべきか迷っています。

       以下に、単行本『死の棘』の付録として入っていた吉行淳之介、奥野健男の論評の中から、奥野武男の「『死の棘』論抄〜その成立のいきさつ〜」を引用します。

       

       長編『死の棘』の第1章にあたる「離脱」が雑誌『群像』に発表されたのは昭和35年4月である。そして最終章「入院まで」が雑誌『新潮』に発表されたのは昭和51年10月である。さらに約1年間、作者によって推敲され、昭和52年9月ようやく刊行のはこびとなった。その間、実に17年の歳月を要している。17年間というと幼稚園児だった子どもが、大学を卒業し社会人になってしまうほどの長い年月である。やむを得ぬ何回かの中絶の時期があったにせよ、その間作者の心から『死の棘』のことが一日たりとも離れたことはなかったであろう。

      『死の棘』の完成は作者の業にも似た悲願であり、妻ミホへの絶対の愛の絆の証しにほかならなかったから。それが完成しない17年間、島尾敏雄は、心から安らいで眠る夜を持たない煉獄の連続であったろう。

       この長編の題材は昭和29年10月から翌30年6月までの島尾夫妻のたった9カ月の出来事である。登場人物も、はっきり作者自身やその妻子のこととわかる典型的な私小説のかたちを取っている。

       そういう小説を書くのにどうして17年間もかかったのか。それはこの小説が、人間に許された小説という表現行為の極限すれすれ、いや極限を超えた小説であるからだ。妻の魂の底からの訴え、悲しみ、怒りを、その真実の姿ありのまま描こうとすると妻は人間として解体されてしまって、もはや統一された人間として回復困難の場に陥ってしまう。その妻の狂った魂に、とことんまでつきあい、同一化することによって妻を救おうとするとき、今度は作者の文学的主体性まで崩壊に瀕する。

      しかし作者はその苛酷な極限状態から逃げることを自らに許さず、それを文学化、小説化しようと不可能な行為を自らに課した。不可能と思われる小説を完成することだけが、妻への真実の愛の証しであり、妻を通して神の試みへの唯一の答えである。たとえ人間として許されぬ行為として中途で破滅しても・・・・・。

       しかし妻も自分もあきらかに狂っていた地獄の日夜をその後十数年にわたって追体験し表現するということは、その当事者の生身の妻が、まだ夫の一語一語に鋭く、不安定に反応するなかで、その核心を書くということは、かえって夢中で過ごした狂乱の時期より、さらに辛いしんどい作業であり、生活である。真の『死の棘』の苦しみは、小説に扱われた9カ月の狂乱の時期よりも、『死の棘』を完成するまでの17年間の時期にあったといえる。それは『死の棘』の執筆がしばしば中絶したことにもあらわれている。しかし作者はその困難を打ち克って、妻への鎮魂の書であり、贖罪の書であり、絶対の愛の絆の証しである『死の棘』は遂に完成した。

       その執念に僕はただ脱帽するだけだが、文体の緊張度、迫力が17年間少しも変わっていない作者の稀有の精神の持続力に驚嘆の念を禁じ得ない。

      shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:09 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

      足立稲門会『箱根駅伝応援&新年会』

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        足立稲門会『2017年第93回 箱根駅伝』応援

        日 時:平成29年1月3日(火)11:00〜14:00

        場 所:中央区日本橋

         

         お正月恒例の箱根駅伝では、早稲田大学校友会(卒業生)稲門会の皆さんがそれぞれの地域の走路沿道で応援をしていますが、足立稲門会でも毎年、復路(3日)に中央区日本橋ぎわで早くから待機して場所を確保し応援をしています。

         今年は、2日の往路で青山学院大に続く33秒差で2位となり、ひょっとすると優勝の可能性もあるのではと期待されました。しかし、残念ではありますが、青山学院大は他校を全く寄せ付けない圧倒的な強さで3年連続総合優勝を遂げました。

         早稲田大学も9区までは2位につけていましたが、9区10区で東洋大学に抜かれ、日本橋での応援の目の前を走り抜ける時には3位となり、そのまま大手町にゴールしたようです。

         21番目の最終ランナーが大拍手で迎えられ走り抜けたあと、そのまま近くのレストランで新年会を行いました。

        写真は1位の青山学院大、2位の東洋大、3位の早稲田大学の最終ランナーが目の前を通り過ぎる時に写したものです。

        shr-horiuchi * 早稲田大学・足立稲門会 * 22:04 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

        エマニュエル・トッド『文明の接近』、ハチントン『文明の衝突』、ロストウ『経済成長の諸段階』

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          エマニュエル・トッド、ユセフ・クルバージュ著 石崎晴己訳

           『文明の接近 イスラームvs西洋の虚構』(藤原書店 2008年)

          サミュエル・ハチントン著 鈴木主税訳

           『文明の衝突』(集英社 1998年)

          w・w・ロストウ著 木村健康・久保まち子、村上泰亮訳

           『経済成長の諸段階 一つの非共産主義宣言』(ダイヤモンド社 昭和36年)

           

           2016年(平成28年)の大みそか。今年も世界中でテロが活発化し多くの犠牲者が出ました。残念ながら、この傾向は来年も続いていくと思われます。

           ロストウは『経済成長の諸段階』のなかで、5つの成長段階として「伝統的社会」「テイ・クオフ(離陸)のための先行条件」「テイク・オフ(離陸)」「成熟の前進」「高度大衆消費時代」を挙げています。そして「伝統的社会」から「テイク・オフ」の過渡的社会において教育の必要・普及、出生率の低下にもふれています。

           ハチントンは「『文明の衝突』のなかで、「文明の衝突は世界平和の最大の脅威であり、文明に依拠した国際秩序こそが世界戦争をを防ぐ最も確実な安全装置」だと語っています。おそらく現在の世界で起きている様々な衝突も長期的に見れば一時の過渡的段階のものともいえます。

           エマニュエル・トッドの『文明の接近』は『文明の衝突』のアンチテーゼとも言われますが、ここでも衝突は一時的なもので長期的には文明は接近していくものととしています。その重要な鍵が「人口学」的な研究から見れば「男性の識字率(50%を超える)」そして「女性の識字率(50%を超える)」、その結果として教育程度が進んで「出生率の低下」であるとしています。

          以下『文明の接近』からの引用です。

           

           イスラーム諸国の政体は、権威主義的政体であれ自由主義的政体であれ、もしかしたら制御不可能になるかもしれない。宗教的危機と出生率の低下を結びつける歴史的法則が力強く示唆するところは、イスラーム主義は歴史の終わりではなく、その一時期に過ぎず、それを越えた先に、やがては脱イスラーム教化されたイスラーム圏の可能性が、ほとんど確実なものとして輪郭を表わしている、ということなのである。既に脱キリスト教化されたキリスト教圏が既に存在し、脱仏教化された仏教圏が存在するのと、同様に。

           原理主義は、宗教的信仰の動揺の過渡的な様相に過ぎない。近年の現象である信仰の弱さの帰結として、再確認の行動が生まれるのである。宗教の退潮と原理主義の伸長が時間的に合致するというのは、古典的な現象である。神の存在の疑問視と再確認とは、同じ現実の二つの面に他ならない。そして形而上学的ためらいが生じれば、その避けがたい帰結として、伝統的信仰の放棄にしかなりようがない。

           

           今日イスラーム圏を揺るがしている暴力を説明するために、イスラーム固有の本質などに思いをめぐらす必要はいささかもない。イスラーム圏は混乱のただなかにあるが、それは識字率の進展と出生調整の一般化に結びつく心性の革命の衝撃にさらされているからに他ならない。非イスラーム諸国でもこのような心性の革命を経験した幾つかの国で、大衆的な政治的混乱を観察することができるし、それらの混乱が、イスラームの地で起こり得るあらゆる混乱を激しさにおいて凌駕する場合もあるのである。

           

           ヨーロッパの近代化を理解するには、次のような長いサイクルを想像することができなければならない。すなわち、識字化、脱キリスト教化、次いで出生率の低下が、当初は宗教別の各地域の間の差異を際立たせるが、その後は収斂に向かうというサイクルである。世界全体の近代化とは、すなわち他の大陸に先立って先ず最初にヨーロッパを襲った心性の近代化の過程の拡大に他ならない。イスラーム圏は現在、近代化への移行最中にある。出生率の水準ではすでにヨーロッパに追い付いた国もある。しかしプロセスが始動したのはかくも明白なのであるから、我々としては、ふたたび統一された世界の出現を期待するべきであろう。

          人間の社会は、互いに全く似たようなものとなることは決してないだろう。そしてどんな細部に至るまでも同質的な世界というものを想像するのは、馬鹿げてもいれば悲しいことでもある。ヨーロッパの美しさの依って来る所以は大幅に、スエーデンとイタリヤの間、イングランドとハンガリーの間に存続している差異の中に存するのだ。各国社会の人口学的分析は、もちろん文化的差異の分析に取って代わることはできない。しかし文化的差異の分析作業の中で知的に受け入れることの出来るものは何か、その限界を定めるのは社会の人口学的分析なのである。

          shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:49 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

          遠藤周作著『沈黙』・『死海のほとり』ほか

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            遠藤周作著

             『沈黙』(新潮社 昭和41年)、『死海のほとり』(新潮社 昭和48年)

             『銃と十字架』(中央公論社 昭和54年)、『侍』(新潮社 1980年)

             『イエスの生涯』・『キリストの誕生』(新潮文庫)

             『私にとって神とは』(光文社 1983年)

             

             遠藤周作原作の『沈黙』が日米合作で映画化され、日本でも1月に上映されることになりました。遠藤文学の最高傑作とも言わ『沈黙』は出版当時大変話題となり、各国語に翻訳され大きな評価を受けてきました。ノーベル文学賞の候補にもなったようですが、遠藤周作の理解するイエス像・キリスト像がキリスト教の伝えるイエス・キリスト像とかけ離れていて受賞には至らなかったとも言われています。

             以下は『私にとって神とは』の後書きからの引用です。

             私のような男がまがりなりにも宗教を信じているので、今日までいろいろの質問を受けてきた。「いったい神なんか本気で信じているのか」とか「あんたにとって神とは何か」とかなどである。そういう数々の質問を私が整理して、それに私なりの考えを、できるだけわかりやすく話して、それを文章にしたのが、この本である。振り返ってみると、私の信仰はお読みになるとわかるだろうが、何よりも「無理をしない」「きばらない」ことの上に成り立っているようである。恥ずかしいことだが仕方がない。

             ■この文章は遠藤周作流のてれかくしであり、上記のどの作品を読んでも、まじめに真摯にイエス像・キリスト像、そしてキリスト教に取り組んでいることがよく理解できます。

             遠藤周作のイエス像・キリスト像は『死海のほとり』で悩み求めている姿がありますが、それが『イエスの生涯』『キリストの誕生』に繋がっていると思います。そして遠藤周作の解釈が日本人にとって、とても理解しやすい納得できるイエス像でもあるようです。

             以下は『イエスの生涯』からの引用です。

             イエスもまた、民衆のうつろいやすい真理を見抜いておられた。この半年の間、人々から取り囲まれ、村から村、町から町でイエスはは悦びの声で迎えられたときから、彼はいつの日か、これらの人たちが自分を棄てることを予感されていた。

             愛の神、神の愛、それを語るのはやさしい。しかしそれを現実のに証しすることは最も困難なことである。なぜなら「愛」は多くの場合、現実には無力だったからだ。現実には直接に役にたたぬからだ。現実は神の不在か、神の沈黙か、神の怒りを暗示するだけで、そのどこに「愛」が隠れているのか、我々を途方に暮れさせるだけだからだ。

             イエスは民衆が、結局は現実に役に立つものだけを求めているのを身に染みて感じねばならなかった。かれは愛の神と神の愛だけを説いたのに、彼らは「愛」ではなく、現実的なものしか彼に求めてこなかった。盲人たちは目の開くことを、跛は足の動くことだけを、癩者は膿の出る傷口のふさぐことだけを要求してくるのだった。

             彼は癩者を元の体に戻してやりたかった。盲人の眼も見えるようにしてやりたかった。跛も歩かせてやりたかった。子を失った母に、その子を戻してやりたかった。しかしそれができなかったとき、彼の眼には悲しみの色が浮かんだ。彼は彼らの苦痛やみじめさを引き受けたいとひたすら願った。彼らの苦しみを分かち合うこと、彼らの連帯者となることはイエスの願いであった。しかし彼らは治してくれとイエスに訴えてくる。

            「彼らは徴(しるし)と奇跡を見ざれば信ぜず」

             

             イエスは永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分が最も惨めな形で死なねばならなかった。人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった。もしそうでなければ、イエスは人間の悲しみや苦しみ分かち合うことができぬからである。人間に向かって、ごらん、私がそばにいる、私もあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだのだ、と言えぬからである。人間に向かって、あなたの苦しみはよくわかる、なぜなら私もそれを味わったからと言えぬからである。

            shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:18 * comments(0) * trackbacks(0) * - -
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