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三木清『人生論ノート』『哲学ノート』ほか

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    三木清著

    『人生論ノート』(新潮文庫 初版は昭和29年発行)

    『哲学ノート』『続 哲学ノート』(新潮文庫 初版は昭和32年発行)

    『哲学ノート』(中公文庫 2010年)

    『哲学入門』(岩波新書 初版は昭和40年発行)

    『パスカルにおける人間の研究』(岩波文庫 1980年)

    マックス・ヴェーバー著『職業としての政治家』(岩波文庫 1980年)

     

     政治家、官僚、その取り巻き(きっとこの中には現総理夫人も含まれるのでしょう)の言動、そして、その責任の取り方が注目されています。これは今に限ったことではありませんし、日本の政治家だけに限ったことでもありません、ましては政治家だけに限ったことでもありません。それにしてもマスコミの発達、インターネットの網の目が政治家の一挙手一投足に目が注がれているようです。ともかく自分の行動の結果に責任の取れない人、取る気のない人には退場を願うしかありません。

     

     NHkEテレ『100分de名著』で4月に取り上げられているのが、三木清の『人生論ノート』です。『人生論ノート』は三木清の著書のなかでも最もよく親しまれていと思われます。

     また、『哲学ノート』は時局・政治に関する内容が多く、『続 哲学ノート』は文学論を論じたものが多く収録されています。『哲学ノート』に収録されている「指導者論」は以前に紹介しましたが、今回は「道徳の理念」からの引用です。ここで、マックス・ウェーベルとされているのはマックス・ヴェーバーのことです。政治家は謝罪で「私の不徳と致すところ」と心にも思っていないことを言い訳としていますがそれでは「徳」とは何なんでしょうか。

     

     マックス・ウェーベルは『職業としての政治家』という講演の中で政治と倫理との関係を論じ、そのさい心情倫理と責任倫理とを区別している。心情倫理は行為における心情の純粋性を重んじ、行為の結果については問わない。しかるに責任倫理は行為の結果を問題にし、これに対して責任を負うべきものと考える。

    ウェーベルによると、すべての倫理的行為は二つの根本的に異なる格率のもとに立つことが可能である。即ちひとは彼の行為において心情倫理的立場を取ることもできるし、責任倫理的立場を取ることもできる。心情倫理的な格率のもとに自己が正しいと信じる行いをして結果を顧みないか、それとも責任倫理的な格率のもとに自己の行為の結果に対して責任を負うかということは、我々の道徳的態度において深い対立を形作っている。

     ウェーベルの責任倫理の観念は重要な意味を有し得るものである。それは従来の倫理学において結果説といわれるものの新たな評価を可能にするであろう。即ちそこでは行為の結果は単なる功利主義の立場を離れて、責任という道徳の根本概念のもとに置かれる。そしてこれは自己の行為を社会的に理解することことによって必然的となるのである。我々は社会的存在であるが故に、我々の行為の結果に対して責任を責任を負わねばならない。結果を慮るということは個人的立場において必要とされるのではなく、自己の行為の他の人々に及ばす影響を考える社会的立場において要求されるのである。人間は社会的存在として社会に対して責任を負うている。しかるに行為の結果を問わない心情倫理は社会に対して無責任になり易い。

     

     責任は道徳の根本観念である。ウェーベルの責任倫理と心情倫理の区別は、一方が責任を問題にするのに反して他方はこれを問題としないということにあるのではなく、前者が社会に対する責任を問題にするのに反して後者は自己の人格に対する責任を問題にするということにあるとかんがえねばならぬ。

     

     我々は主体として独立なもの、自立的なもの、自由なものである。かような主体は何よりも責任の主体である。我々は自己のいかなる行為の責任をも脱れ得るものではない。自己の行為の責任を他に転化することは自己の人格を放棄することである。我々は常に自己に対して責任を負うている。我々は自己の行為において良心的でなければならない。真の良心は自己の行為の動機についてのみでなく、その行為の結果についても責任を感じるであろう。結果に対する責任を除いて真の責任というものは考えられない。

    行為の結果に対して責任を負うということは単に自己の外部に対して責任を負うことではなく、また自己に対しても責任を負うことである。なぜならすべての行為は自己を形成するという意味をもっているから。自己に対して責任を有するということは自己の形成に対して責任を有するということである。

    shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:47 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

    ポール・ヴァレリー著『精神の危機』

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      ポール・ヴァレリー著『精神の危機』(岩波文庫 2010年5月)

       

      「中庸」に関するポール・ヴァレリーの言葉をここで引用します。

        「思考は極端なるものによってのみ進むが、

          しかし、中庸なるものによってのみ存続する。」

       

       ポール・ヴァレリー著『精神の危機』については、このブログで何回も紹介しています。日本の政治状況の危うさや、世界的な政治危機なかで、読み返しているとまた新たに感じるところもあり、今回は『精神の危機』の「独裁という観念」から以下に引用します。

       

       実践的な政治について、私はほとんど何も知らない。思うに、そこには、私の忌避するものばかりがあるような気がする。それはこの上なく不純な世界に違いない。すなわち、私が一緒にしたくないと思っているものがこの上なく混同されている世界、例えば、獣性と形而上学、力と権利、信仰と利害、現実的なものと演劇的なもの、本能と観念などが混同されている世界である・・・・・。

       

       ここでは、私は読者を前に「独裁」というものがどのようにして発生するかという問題を一考するにとどめたい。

       あらゆる社会システムは多少なりとも自然に反するのである。自然は、刻々、自分の権利を取り戻そうとする。生者、個人、傾向は、それぞれの仕方で、強力な抽象概念装置、法と儀式の網目、一つの組織化された社会を定義する慣習や決め事の体系を乱し、解体しようとする。様々な人々、利益団体、党派や政党は、それぞれの必要と才覚によって、国家の命令や実質を浸食し、解体する。

       考えられるあらゆる政体の下で必ず存在する、存在せずにはいられない濫用・誤用・故障が社会理念の生命原則(すなわち社会理念の信頼度とその力の優位性に対する信念)を変えない限り、世論は色々困惑させられるようなことが起こってもそれほど騒ぐことはない。事件はたちまち吸収されて、それによって、社会制度が危機に瀕したというよりも、むしろ基盤が強固であることを証し立てるのである。

      しかし、一般意識の限界値に達して、大方の国民に、「国家」の無策の責任に帰せられるべき問題を考えずには自分たち個々の問題も考えられないというような事態に至ることがある。したがって、一般状況が個人生活に大きく影響するほど悪化し、公的事象が出来事の翻弄されているように見え、人々や制度への信頼感が失われて、行政機能や業務実態、法律の適用がいい加減になって、依怙贔屓や因習に流れるようになり、諸政党が争って権力の甘い汁を吸い、低級な利権を貪って、権力が提示する理念的な救済手段には目を向けなくなったとき、そうした無秩序と混乱の感覚は、それを身にの受け、そのような解体からはいかなる利益も引き出すことのない人々の心に、必ずや、正反対の状況を思い描かせ、ほどなく、そういう状況を実現するためにすべきことは何かを喚起することになる。

       そうなるともはや政体は以下の三点だけで支えられることになる。すなわち政体の存亡に関わる利害の力、不安感と未知なるものに対する恐れ、そして独自で明確な未来の観念の欠如、あるいは、そうした観念を代表するような人間の不在である。 

       

       独裁が想像裡に描かれるようになるのは、精神が出来事の推移に権威・連続性・統一が認められなくなったときである。反省的意志の存在と組織された知識の統御の標識であるその三つのものが認められないと、精神の反応は必然的に(ほとんど本能的に)独裁を思い描くのである。

       そうした反応は異論の余地のない一つの事実である。ただし、そこには、政治権力の影響が及ぶ範囲や深度に対して過大な幻想が抱かれているふしがないではない。しかし、反省的思考と公的秩序の混乱とが出会ったとき、唯一形成されるのがそれなのだ。意識的か否かを問わず、みんあが独裁を思うのである。各人が心の中で独裁者が生まれつつあるのを感じる。それは一次的で自然発生的な効果で、一種の反射反応である。それによって、現在あるところのものと正反対のものが、議論の余地なき、唯一かつ明確この上ない必要物とし前面に押し出されてくるのだ。それは公的秩序と救済の問題である。この二つのものをなるべく早く、最短距離で何を犠牲にしてでも手に入れなければならない。唯一、一つの自我だけがそれを成し遂げることができる。

       

       要するに、精神が自分を見失い、自分の主要な特性である理知的行動様式や混沌や力の浪費に対する嫌悪感を、政治システムの変動や機能不全の中にもやは見出すことができなくなったとき、精神は必然的にある一つの頭脳の権威が可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。なぜなら、様々な知覚、観念、反応、決断の間に明確な照応関係が把握され、組織され、諸事情に納得できる条件や処置を施すことができるのは、頭脳が一つのときだけに限られるからだ。

       あらゆる政体、あらゆる政府はこうした精神による判断に曝される。権力のとる行動あるいは無策が、精神にとって、あり得ないようなものに思われ、自らの理性の行使と矛盾するように思われると、たちまち、独裁の観念が姿を現す。

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      石川達三著『金環蝕』

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        石川達三著『金環蝕』(岩波現代文庫 2000年)

         

         いまさら石川達三と云っても知らない人が多いと思いますが、作家でブラジル移民集団の姿を描いた『蒼氓』で、1935年に第1回芥川賞を受賞しています。『金環蝕』は自民党政権下での九頭竜川ダム汚職事件をモデルとして、1966年に新潮社より出版され、映画化もされ当時はかなりの話題となりました。

         今、「森友」に対して破格に割安・好条件で国有地払下げをしたのではという追及に端を発した、安倍明恵総理大臣夫人の行動が話題となっています。また、歴代の総理夫人はこのような行動をしていなかったとも言われています。しかしながら、この『金環食』に書かれていることをモデルのある小説として読めば、歴代の総理夫人が全く政治に関与しなかったとは言い切れません。むしろ陰に回って、もっと悪質だったのかもしれません。

         以下『金環蝕』の「首相夫人の名刺」からの引用です。内閣官房長官の秘書の西尾秘書官と電力建設会社総裁の財部総裁とのやり取りです。電力建設会社は政府の付属で、F−川電源開発を担当する建設会社を選ぶ立場にあります。

         

         見ていると西尾秘書官は、用件を記した便箋を丁寧に四つ折りにして封筒に収め、それを内ポケットに入れた。口頭で用向きを伝えたが、財部総裁の手もとに証拠の紙片を残さないように、用心しているのかと思われた。西尾秘書官は、今度は別のポケットから紙入れを取出し、それを総裁の前に押しやりながら、「それから、これを総裁にお渡しするようとのことでした」と言った。

         財部が受け取ってみると、中に名刺が一枚入っていた。「竹田建設のこと、私からもよろしくお願い申し上げます」と書いてあり、印刷した名前は寺田峯子とあった。

         それを見ると総裁はかっと頭に血が登って来るような感じがした。寺田峯子とは、寺田総理大臣の夫人である。あの出しゃ張り女がこんなところまで口を出して来たかと思うと、財部はむらむらと腹が立った。通産大臣の信任を受けて電力建設会社の総裁となったからには、会社の業務に関する限りは何人の溶解をも許すべき筋合いはないのだ。Fー川電源開発は財部総裁の責任において建設される。そこの工事をどこの建設会社にやらせようが、外部から口出しをされる理由はどこにもないのだ。官房長官と云えども発言権はない。いわんや総理夫人などという局外者が、どんな権限を持って総裁に命令をするというのか。

         名刺には、「宜しくお願い申し上げます」と書いてあったが、財部の感情では、これは命令と受け取っていた。それだけ総理夫人という立場は強力であった。この女は官職も何も有るわけではないが、寺田総理と結婚している女であるが故に、世間は彼女の発言に譲歩する。その譲歩を計算に入れて、こうした名刺をよこしたに違いないのだ。

         「総理夫人はたびたび、こういう事をなさいますか」財部は西尾秘書官に聞いた。

        「ときどきご自分の名刺を持っていかせるという事は、あるようです。私はあまり知りませんが、たしか防衛庁長官宛にも名刺をお出だしになりました。軍需物質の納入について、宜しく頼むという様な主旨でした。総理のご郷里の商社の人から頼まれたようです。」

        総理夫人の名刺は、防衛庁長官と云えども無視するわけにはいかない。従って紹介をもらった商社から何千万、あるいは何億という献金が、献金という名の賄賂が、寺田総理に贈られたと思われる。それが総理大臣夫人の内助の功であったのだ。

        多分、星野官房長官は自分の思い付きで、総理夫人寺田峯子に会って事情を訴え、「またひとつ、名刺を書いてくださいませんか」と頼んだことだろう。何億という政治献金と結びついていると聞かされ、夫人は夫の急場を助けるために、いつものように名刺を書いたに違いない。

         

        ■同じく『金環蝕』の「一人の犠牲者」からの引用です。総理夫人と西尾秘書官とのやり取りです。

         「あなたは8月の初めに、星野官房長官のお使いで、電力建設の財部総裁に会いに行って下すったでしょう」夫人はたたみかけて来るような言い方をした。「行って下すったわね」

        「はい・・・参りました」

        「そのとき、総裁宛の私の名刺を持って行ってくださいましたね」

        「はい」

        「その事が、もし世間に知れわたったりしたら、私が非難されるばかりではなくて、総理の政治的生命にもかかわる問題だということも、お分かりの筈ですね」

        「はい」

        「それだけ解かっていらっしゃるのに、なぜあなたはあの事を世間に言いふらしたりなさったの」

        「いいえ、僕は言いふらしたりなんかしていません」

           中略

        「弁解したって駄目よ。あなたは私の顔に泥を塗って下すったのね。私だけなら我慢もします。総理の名誉は完全に傷つけられました。もしこの噂が広まって、新聞が書き立てたり、野党の方が国会で質問を提出したりしたら、あなたの責任はどういうことになるの。・・・西尾さん、どうなさるおつもり」

        「私は人事に口出しなんか致しませんからね。あなたにどうしろという事は申しませんよ。あなたご自分でお考えになって、一番適当な方法をお取りになることですわね。」

        ■結局、西尾秘書官は自殺することになります。 

        shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:22 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

        『中庸』、パスカル『パンセ』、『アリストテレス倫理学入門』

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          宇野哲人 全訳注『中庸』(講談社学術文庫)

          J・O・アームソン『アリストテレス倫理学入門』(岩波現代文庫)

          世界文学全集11『パスカル・モンテーニュ』(筑摩書房)

           

           現在では、世界中で過激な発言、行動、思考がまかり通って敵対的な対立を生み出し、それを阻止しようとする側でも同じように過激な行動に走っています。今必要なのは「寛容」とか「中庸」であると言われながらも、すべての人がそのような気になるのはほとんど不可能なことのようです。

           東西を問わず、古の哲人たちは「中庸」の必要性を語っていますが、人間はそれに耳を貸そうとしません。「中庸」に関する言葉を幾つか紹介したいと思います。

          先ずは、文字通り『中庸』です。中国古代では四書五経の『大学』『中庸』『論語』『孟子』に入っているほど学問をする上では重要な書籍として扱われてきました。以下は『中庸』からの抜粋です。

           「偏(かたよ)らざるをこれ中と謂い、易(か)わらざるをこれ庸と謂う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。」

           「君子は中庸をす。小人は中庸に反す。君子の中庸は、君子にして時に中す。小人の中庸は、小人にして忌憚なきなり。」

           

          次は『アリストテレス倫理学入門』からの引用です。中庸に関しては主にアリストテレス『ニコマコス倫理学』では第二巻で触れられています。

           中庸の理論の中心思想は次の通りである。優れた性格とはそれぞれの状況に応じて、その状況にとって最適な程度に情動を感じたり表したりする気質であり、このような気質は、情動の感じ方、表わし方が超過することと不足することとの間に位置する。中庸においては、人は各情動を適切な時に、頻繁に過ぎることもなく間遠に過ぎることもなく、適切な事象に対し、適切な人々に向かい、適切な理由を持ち、適切な方法によって感じを表わす。

          超過の誤りは、時を選ばず、不適切な状況において、正しい理由もなく、不適切な方法で情動を感じ表わすことである。不足の誤りも同様に述べることができる。

           超過と不足を簡単に言うと、「多すぎる」と「少なすぎる」になる。このために多分多くの読者が、中庸の理論を、あらゆる場合に情動と行動の極端を避けるべきだという「適度の理論」と見做してしまったのであろう。しかし『ニコマコス倫理学』の幾つかの箇所から、この解釈が誤りであることが分かる。たとえば、「恐怖、自信、欲望、怒り、憐れみ等々の快不快は、感じすぎろこともあれば、感じなさすぎることもあり、その両方ともよくない。これらの快不快を、適切な時に、適切な事物に対し、適切な人々に向かい、適切な動機により、適切な方法で感じることが、中庸であると同時に最善であり、これを優れた性格という」

           

          最後に、パスカルの『パンセ』(松浪信三郎訳)378より引用します。

           極端な精神は、極端な精神喪失と同様に、狂愚として非難される。中庸以外には何も良いものはない。そのことを決めたのは多数の人々である。人々は、どちらの端を通ってにせよ、中庸から抜け出る者を悪く言う。私は必ずしも中庸に固執しはしないが、そこに置かれることに同意する。私は下の方の端に置かれることを拒絶する。それは、そこが下の方であるからではなく、そこが端であるからである。なぜなら、私は上の方の端に置かれることも、やはり拒絶するであろう。中間から逸脱することは、人間性から逸脱することである。人間の魂の偉大さは、いかにして中間に身を持するかを知る点にある。偉大さは中間から逸脱することにあるどころか、むしろそこから逸脱しないことにある。

          shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:13 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

          吉本隆明『宮沢賢治の世界』 ほか

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            吉本隆明『宮沢賢治の世界』(筑摩書房 2012年)

            河合隼雄『猫だましい』(新潮社 2000年)

            高橋源一郎『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』(集英社 2005年)

             

             NHKEテレの『100分de名著』の3月分放送は「宮沢賢治」でした。

            宮沢賢治と云えば『春と修羅』等の詩人であり、『銀河鉄道の夜』等の童話の作家で、日本では子供から大人まで幅広く親しまれています。しかしながら、一方では宮沢賢治に関する批評・評論・解説本はいずれも難解でわかりにくいものが多いようです。詩も童話もメタファー(隠喩)であり、老若男女を問わず読者一人ひとりが、それぞれの置かれた状況で如何様にも解釈することができる魅力を備えていることが、親しまれるながらも難解なこととに通じているのかもしれません。

             ここに取り上げた本は、その中ではとても分かりやすく楽しく宮沢賢治の魅力が語られています。先ずは、河合隼雄著『猫だましい』からの引用です。

             山折哲雄さんが、小学校6年生に対して、宮沢賢治についての授業をした。山折さんは賢治の3つの作品『風の又三郎』、『注文の多い料理店』、『銀河鉄道の夜』を示し、「これらには、共通する問題が出てくるです。なんだと思う?」と子供たちに問いかける。そして、「それはね、風がものすごく大切な役割を果たしているということ。この3つの童話の中心的な大問題は風だということです」と自ら答え、賢治の作品のなかの風の重要性を明らかにしていく。実の賢治の本質をついた授業である。

             この授業を受けた子どものなかに、「それは猫だ」と言おうと思ったが山折先生が「風」と言ってしまったので。あれっと思った。そうかなと思ったが、先生の話を聞いているうちに、やっぱり「風」と思った、ということです。

             猫のイメージと風のイメージが、私(河合)の心の中で重なるのを感じたのである。

            普通だと、猫と風は全く別種と感じられるかも知れない。違うと言えばまったく違ったものである。しかし、風の掴まえどころのなさ、いったいどこから来てどこへ行くのかわからない、優しくもあれば荒々しくもある、少しの隙間からでも入り込んで来る、などという性質は、猫にもそのまま当てはまることだし、賢治の作品の猫たちは、まさにそのような性格を持って登場してくるように思うのである。

             

             次に、吉本隆明著『宮沢賢治の世界』の9章「いじめと宮沢賢治」からの引用です。

             宮沢賢治という人の童話は、ある意味ではほとんど全部がいじめ問題じゃないかということです。それで、いじめ問題ということで、ちょとと絡めて賢治の作品を読みました。すると、いくつかの思いがけないいじめ問題についての考えが宮沢賢治にあるわけです。他のいじめ問題の専門家のような人や、いまのいじめ問題でいろいろと言われている考え方とものすごく違っているところがひとつあります。それは何かと云えば、いじめる方については、あまり何かを云ってないんですが、いじめられる方の人間といいますか、子どもは、要するに、”聖”だと言っていると思います。”聖”というのはつまりセイントといいますか、つまり非常に尊い人だ、尊いものだ、ということを、賢治は言っているように思えます。

            いじめられるほうが偉いのだというと、ちょっと違いますが、人間として純粋とか、人間以上の何かを持っているんだと言っていると思います。つまり”聖”だと言っている。

             宮沢さんの童話を、何か特定の主題と結びつけて論ずるのは、本当は違うような気がしますけれども、しかし、宮沢さんの童話のなかには、今日の主題のように、いじめにもし普遍性があるとすれば、普遍的な意味でのいじめを主題にした文学だと思います。

             

             最後に、高橋源一郎著『ミヤザワケンジ・グレーテストヒット』について。

             この本は宮沢賢治の童話を題した24作品が収録されている短編集です。宮沢賢治のトリビュートであると言われていますが、私の読後感としては、その内容からは宮沢賢治に対するオマージュ(尊敬・賛辞)であるとは思えません。しかしながら、2006年に「第16回宮沢賢治賞」を受賞しているということは、それなりの評価を受けているということなのでしょう。

            shr-horiuchi * こんな本を読みました * 21:20 * comments(0) * trackbacks(0) * - -
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