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河合隼雄著『影の現象学』&『昔話の深層』

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    河合隼雄著

     『影の現象学』(施策社 昭和51年)

     『昔話の深層 ユング心理学とグリム童話』(講談社α文庫)

     

     ブライアン・エヴァンソン著:柴田元幸翻訳の『ウインドアイ』『遁走状態』を読み、季刊誌『MONKEY』で村上春樹のアンデルセン文学賞受賞スピーチ「影の持つ意味」を読み、やはり河合隼雄に触れたくなりその著書『影の現象学』『昔話の深層』を読み直してみました。

     村上春樹の作品の多くは、あるいはほとんどが現実と非現実の間を彷徨うような不思議な読後感をもたらしてくれます。メタファー(隠喩)として書かれているようで、読者はみなそれぞれに自分なりの解釈ができるところが魅力なのかもしれません。

    村上春樹がユング派の心理学者である河合隼雄氏と知り合ったのがいつかは分かりませんが、『河合隼雄対談集こころの声を聴く』(新潮文庫)や『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)から判断すれば、『ねじまき鳥クロニクル』の執筆のころということになります。村上春樹のそれ以前の作品にも同様な傾向はありますが、河合隼雄氏から大きな影響を受けているのではと思われます。

     

     季刊誌『MONKEY』に掲載された村上春樹の「アンデルセン文学賞」授賞式のスピーチの一部を前回に紹介していますが、その一部がまさに河合隼雄著『影の現象学』でユングの言葉として紹介されています。以下に「第4章・影の逆説」の書き出しを引用します。

     今まで述べてきたところにおいても、影の持つ逆説性にはしばしば触れてきた。それはたとえば、影のない世界としての極楽の描写の平板さと、影の世界としての地獄の色彩的な生き生きとした描写の対比としても見ることができた。「生きた生態は、塑像として見えるためには深い影を必要とする。影がなくては、それは平板な幻影にすぎない」とユングは言っている。

     

    ■ハンス・クリスチャン・アンデルセン著・長島要一約『影』(評論社)の訳者あとがきに、以下のような文章があります。

     作者のアンデルセンがこうして影の秘密について沈黙に封印をしたことによって、かえって多様な解釈を促す結果となりました。「影」のあいまい美学、多様性戦略は、カフカの『審判』、ベケットの『ゴドーを待ちながら』をはるかに先駆けていましたし、安部公房、村上春樹もその線に遠く連なっているのです。

     

    ■河合隼雄著『影の現象学』は村上春樹の作品を理解するためにも必読書といえるかも知れません。最新作『騎士団長殺し』は、まさにこの影そのものを主題としているかのようです。以下に、『影の現象学』から引用します。

     非日常の世界から見れば、日常の世界は魂を失った堕落の世界であり、日常の世界から見ると、非日常の世界は破滅への道と見えるのである。

     

     子供は真実を見抜く力を持つが、それを語ることが及ぼす結果の恐ろしさを予見する力を持たない。子どもは自由にあらゆる世界に通じている。彼の一言によって家庭の平和は破れるが、これは起こるべくして起こったのである。

     

     見えない影の恐ろしさについて述べてきたが、われわれは影の存在を目には見ることができないときでも、それを視覚以外の感覚によって感じることがある。すなわち、聴覚、嗅覚、触覚による場合であり、それは、その存在に対する「確信」という形を取るときもある。つまり、何も感覚的には把握できないが、そこに何かが存在するという確信が持たれるのである。

     このような目には見えぬ影の侵入をこうむるとき、人は色々な幻覚にとらわれる。他人には聞こえぬ声が聞こえたり、あるいは、変な臭いがしているように感じたりする。あるいは、何かの存在が自分に触れたり、あるいはそれが背後にいることを確信したりする。人間は「目の動物」と呼ばれたりするように、視覚に頼ることが大なので、このような目には見えない影を相手にするとき、その姿を見るようにすることが重要である。姿を見ることができると、われわれにはそれに対処する方法が考え出せる。

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    柴田元幸翻訳『ウインドアイ』・『遁走状態』

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      ブライアン・エヴァンソン著 柴田元幸訳

       『ウインドアイ』(新潮社 2016年)『遁走状態』(新潮社 2014年)

      柴田元幸著『愛の見切り発車』(新潮社 1997年)

      三浦雅士著『村上春樹と柴田元幸のもう一つのアメリカ』(新書館 2003年)

       

       或る一人の作家の小説を読み始めるきっかけは色々あります。「人に勧められて」「新聞・雑誌の書評欄を見て」「テレビなどの紹介で」「ベストセラーで興味があった」「本屋で立ち読みしておもしろそうだったから」等々。実際に読んで感銘を受けたり面白かったりすれば、その作家の他の小説も読んでみたくなります。過去の作品を読み、新作を購入するという、いつの間にかその作家のフアンになり、それでも、長い付き合いのあとで、マンネリということではないにしても離れていくこともあります。

       同じようにある翻訳家が気にっいてフアンとなり、その翻訳家の翻訳した小説を読み続けるということもあるのでしょうか。私にとっては柴田元幸さんがその翻訳家ということになります。最初はアメリカの作家ポール・オースターの「ニューヨーク三部作」から始まってポール・オースターの作品をいまでも読んでいます。このときは翻訳が誰だということは気にしていませんでした。

      次に、村上春樹の作品では『18Q4』から興味が湧き過去の作品を読み今でも新作を読み続けています。村上春樹と柴田元幸との英米の現代文学の翻訳を通しての関係を知り、はじめて柴田元幸さんに関心を持ちました。柴田元幸責任編集の季刊誌『MONKEY』はいつも楽しく読んでいます。ということで柴田元幸のフアンとなり、英米現代文学に関する彼の選択眼を信頼して、その翻訳した小説を読んでいますが、いつも期待にこたえてくれています。

       

       『ウインドアイ』・『遁走状態』、出版順では後先逆に読むことになりました。どちらも短編集ではありますが奇妙な小説として引き込まれていきます。どの作品も、何となくというのか唐突に話が始まり、現と幻の間を彷徨よっているような理解不能なまま話は進展し、尻切れトンボのような形で話が終わってしまいます。長いお話の始めと終わりを切り取って隠してしまったような印象です。しかし病み付きになりそうです。

       柴田元幸さんにはもともと、本人の資質としても、このような性質を持っているのかもしれません。以下は『村上春樹と柴田元幸のもう一つのアメリカ』からの引用です。

       

       柴田元幸に「死んでいるかしら」というエッセイがある。エッセイ集の表題にまでしているから、おそらく本人としても気に入っているエッセイなのだ。表題もそうだが、書く出しも衝撃的だ。「自分はもう死んでいるのではないだろうか、と思うことが時々ある」というのである。はっきりいって、こういうことを思う人間はあまりいない。。時々思う人間だってまずはいないだろう。エッセイは次のように続く。

       「朝早く、駅に向かって自転車のペダルをこぎながら、角を曲がるときなどに、ふと、僕はこないだの朝こうやってこの角を曲がろうとして、実は大型トラックと正面衝突をして死んだんじゃないだろうか、という思いに襲われたりするのである」

       これは簡単に言えば、自分は実は幽霊ではないかといっているのである。幽霊であることを忘れているのではないか、と。ふむ。ふつうなら、これは狂気すれすれですね。そこで柴田元幸は大急ぎで次のようにつけ加える。「ようするに寝ぼけているだけ話なのかもしれないのだが」と。仮に変な事を言っているにしても、寝ぼけている、すなわちあくまでも正気の一形態なのであって、狂気に陥っているわけではないのだから、そのへんは何分に宜しく、というわけだ。

       だけど、寝ぼけているにしたって、幽霊が寝ぼけて柴田元幸になったと思っているのか、柴田元幸が寝ぼけて幽霊になったと思っているのか、いったいどっちのほうに寝ぼけているというつもりなのだろう、と怪訝な顔をすることになってしまう。

       柴田元幸は大急ぎでさらに一言と付け加える。

      「これはたとえば、自分が今ここにいることへの微妙な違和感というか、生に対する根源的な疎隔感というか、生きていることを日ごろからどうも実感できずにいるという、いわば存在論的次元などとは違う話である。」哲学的な話でも、精神病理的な話でもない、というわけだ。「むしろ、もっとずっと単純に、えーと何か大事なことを忘れている気がするんだけど何だったけかな、といった」そういう感じなのだ、と。つまり、忘れ物でもしたような感じでそう思ったのだ、と。

      shr-horiuchi * こんな本を読みました * 20:17 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

      季刊誌『MONKEY』、村上春樹のアンデルセン文学賞受賞スピーチ

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        柴田元幸責任編集『MONKEY』(スイッチ・パブリッシング 2017年2月)

        ハンス・クリスチャン・アンデルセン著『影』(評論社 2004年)

         訳 者:長島要一  画:ジョン・シェリー

         

         村上春樹が2016年10月に「ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞」受賞して、デンマークでの授賞式で記念スピーチを行いました。「ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞」はデンマークの文学賞で隔年で授与され、対象となるのは「アンデルセンと共通する要素を持つ、物語性の強い小説を書く作家」ということになっており、現在までに村上春樹を含めて5人受賞しています。一方で、有名な「国際アンデルセン賞」は「児童文学への永続的な寄与」に対する表彰として送られ、日本人でも上橋菜穂子等数名が受賞しています。

         

         村上春樹が2009年にイスラエルの最高文学賞「エルサレム賞」を受賞したときには、厳しい中東情勢の中で、受賞するのか断るのか、受賞式には出席するのかしないのか、受賞スピーチはどのような内容になるのか、そしてその授賞式での「壁と卵」のスピーチの内容がマスコミでも大変話題になりました。以下は、そのスピーチからの引用です。

         

         「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵がるとしたら、私は常に卵の側に立つ」ということです。そうなんです。その壁がいくら正しくても、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、その作品にいかなる価値見出せるのでしょうか?

         この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりにも単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット砲、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩に一つの解釈です。

         しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやす殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。私もそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は、「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。

         

        ■ 「ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞」の受賞式での記念スピーチは「影の持つ意味」と題して、アンデルセンの書いた最もダークな物語『影』という作品を取り上げ、村上春樹の書く小説との共通性について語っています。この受賞スピーチが2月に発売された季刊誌『MONKE vol11 特集:ともだちがいない!』で全文が紹介されています。以下は、そのスピーチからの引用です。

         

         影との対面は一人ひとりの個人に要求されているだけではありません。社会や国家にとっても、その作業は欠かせないものになります。すべての人に影があるのと同じように、どのような社会にも国家にも必ず影があるからです。そこに明るく輝く部分があれば、その補償として、暗い部分も必ずどこかに存在します。正の部分があれば、その裏には必ず負の部分があります。

         我々は時としてそのような影の部分、負の部分から目を背むけがちです。或いはそのような部分を力で排除してしまおうと試みます。人は自らの暗い部分を、負の資質を、できるだけ目にしたくないと望むものであるからです。しかし塑像が立体として見えるためには、影がなくてはなりません。影なくしては、それはただ平板な幻影となってしまいます。影を生まない光は、本物の光ではありません。

         どれほど高い壁を築いて侵入者を防ごうとしても、どれほど厳しく異分子を社会からは排斥しようとしても、どれほど自分に都合よく歴史を作りかえようとしても、そのような行為は結果的に我々自身を損ない、傷つけるだけのことです。

        あなたは影と共生していくことを、辛抱強く学ばねばなりません。自分自身の内部に存在する闇をしっかり見つめなければなりません。もしそれができなければ、やがて影は大きく強い存在となって戻ってきて、ある夜、あなたの住まいのドアをノックすることでしょう。「さあ、もどってきましたよ」と。

         優れた物語には、我々が学ぶべき多くのことが含まれています。時代や文化を超えて。

         

        ■季刊誌『MONKEY』には、アンデルセン作『影』が菅原克也の訳・平松麻の絵で全文収録されています。

         

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        アトキンソン『21世紀の不平等』、ピケティ『21世紀の資本』

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          アンソニー・B・アトキンソン著『21世紀の不平等』(東洋経済新報 2015年)

           訳 者:山形浩生、森本正史

          トマ・ピケティ著『21世紀の資本』(みすず書房 2014年)

           訳 者:山形浩生、守岡桜、森本正史

           

           新聞の報道で、国際非政府組織(NGO)オックスファムは1月16日、世界で最も裕福な8人と、世界人口のうち経済的に恵まれていない半分に当たる36億7500万人の資産額がほぼ同じだとする報告書を発表しました。貧富の格差は社会の分断を招き、貧困撲滅の取り組みを後退させると警告し、各国政府や大企業に「人道的な経済」の確立を求めています。

           報告書では、8人の資産が計4260億ドル(約48兆7千億円)で、世界人口73億5千万人の半分の合計額に相当すると指摘。1988年から2011年にかけ、下位10%の収入は年平均3ドルも増えていないのに、上位1%の収入の増加は182倍としている。

           格差是正を、と言われながらもその実態は、富める者はますます資産を拡大し、貧しきものはますますより貧困層へと追いやられる、世界の貧富の格差は拡大しています。『21世紀の資本』も『21世紀の不平等』も経済的な格差・不平等を取り上げて、どちらも経済学の専門書としてはまれなベストセラーとなったようです。どちらの本に対しても賛否両論あるようですが、政官財学のリーダーが真剣になって取り組めば格差是正は可能であると思います。要は彼らには政策を立案し実行する気がないだけのことでしょう。

          以下は『21世紀の不平等』からの引用です。「格差は遺伝する」と言われますが、今日では本人の責任ではない家庭環境の経済的な格差で出発点である機会の均等さえも奪われています。

           

           経済的結果の決定要因は家族関係など個人の力ではどうにもならない「環境」に起因するものと、個人が責任を終える「努力」とに分かれる。機会均等は最初の変数(環境)が結果に何の影響も与えないときに達成される。もしも学校で勉学に励み、試験に合格して医大に入ったなら、医者としての高給は少なくとも一部は(必ずしも全部ではないが)努力の結果と見做せる。他方で、彼らの医大在籍が、親の影響(たとえば、卒業生の子息に与えられる入学優先権)で確保されたならば、そこには機会不平等が存在する。

           機会均等の概念は魅力的なものだが、では結果の不平等はどうでもいいことだろうか?この問いに関する答えは「否」だ。結果の不平等はやはり重要で、それは「均等な競争の場」への配慮から入ったとしてもそうだ。その理由を知るには、まず二つの概念の違いを理解しよう。機会の不平等は、基本的には事前的な概念「すべての人が平等な開始点を持つ」であるのに対して、多くの再配分活動は事後的な結果に関心を寄せている。結果の不平等は関係ないと考える人々は、事後の結果に対する懸念は不適切であり、人生の競争において均等な機会さえあれば、結果に介入すべきではないと信じている。

           

           結果の不平等への関心を持つ理由は、それが次の世代の機会均等に直接影響するからだ。今日の事後的結果は明日の事前環境を作る。今日の結果不平等の受益者は、不公平な優位性を明日の子どもたちに伝える。機会不平等、そして限られた社会流動性への懸念は、所得と富の分布が不平等になってきたことで増大してきた。これは家庭環境が結果に及ぼす影響が県境と結果の関係性の強度と家庭環境における不平等の程度の左右されるからだ。今日の世代における結果の不平等は、次の世代が受ける不公平な優位性のもとになる。もしも明日の機会均等を心配するなら、今日の結果の不平等を心配しなければならない。

           

           本書では「もし不平等の水準を引き下げたいなら、どのようにこれを実現できるだろうか?」という質問に答えようとして書いた。不平等に取り組むべき理由は多い。経済的か結果の不平等を減らせば、これは現代民主社会の重要な特徴とされる機会の平等の確保にも役立つ。犯罪や不健康と言った社会的な悪は、今日の社会が持つきわめて不平等な性格のせいだとされる。これは貧困や不平等をもっと低くするよう努める実務的な理由を提供してくれる。また、極端な不平等は民主主義の仕組みと相容れないという懼れんもその理由となる。そして現在のような不平等の水準が、よい社会の考え方と内在的に反するものだと信じている人々もいて、私もその一人だ。不平等を懸念する理由は何であれ、問題は残る。不平等の大幅な削減はどうすれば実現できるだろう。

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          ハーパー・リー『アラバマ物語』・『さあ、見張りを立てよ』その2

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            ハーパー・リー著

             『アラバマ物語』(暮らしの手帳)、『さあ、見張りを立てよ』(早川書房)

             

             前回に続き今回は、『さあ、見張りを立てよ』の本文からの引用ですが、このアメリカ人の心情は現在に至るまで残されているのではないでしょうか。以下は主人公ジーンの友人クロ-ディーンがアラバマの片田舎からニューヨークに遊びに来た時の感想です。アメリカでもリベラルな大都市以外では、今日でも意外にクローディーンのような人たちが優勢を占めているのではないでしょうか。

             

            「押したり押し返したりって、まさにそれがニューヨークの人たちね。マナーってものがないのよ。」とクローディーンは言った。

            「マナーはあるわ、クローディーン。ただ、私たちのとは違うのよ。私をバスで押した人は、押し返されるのを予期していたの。それが、私のすべきことだったのよ。ゲームみたいなものよ。ニューヨーク以上にいい人たちがいるところはないわ。」

            クローディーンは口をすぼめた「でも、私はイタリア人とかプエルトリコ人とかと交わりたくはないわね。ある日、ドラッグストアであたりを見回したら、黒人の女が私のすぐ隣で食事をしているじゃない。私のすぐ隣でよ。もちろん、それができるってことは分かってたけど、本当にショックだったわ。」

            「その人は、あなたを傷つけたりしたの?」

            「まあ、してないわね。でも、私は急いで立ち上がって店を出たわ」

            「お分かりでしょうけど」とジーンは穏やかに言った。「ニューヨークではあらゆる種類の人たちが自由に歩き回ってるのよ」

            クローディーンはは背中を丸めた。「信じられないわ。あなた、ああいった人たちとよく暮らせるわね」

            「全然意識しないのよ。彼らと一緒に仕事をし、食事も一緒に隣りでしたりするし、バスも一緒に乗るわ。でも、わざわざ意識しようと思わなければ、意識しないの。肥った巨体の黒人がバスで隣に座っても、立ち上がってバスを降りるときまで、そのことを知らなかったりする。とにかく気づかないのよ。」

            「でも私は気付いたわよ。あなたって目が不自由なんじゃないの」

            目が不自由。確かに私はそれだ。目が開いていなかったのだ。人々の心の中を覗き込もうと思わなかった。

             

            ■上記に関連して、このブログでも紹介しましたサミュエル・ハチントン著『分断されるアメリカ』(集英社 2004年)からも引用します。まるでトランプの出現を予言していたようです。

             

            産業界のエリートのグローバリゼーション志向は、雇用を海外に流出させ、その結果、所得格差が拡大して労働者階級のアメリカ人の実質賃金が下がった。リベラルな主流派のメディアは、白人男性に対する犯罪よりも、黒人や同性愛者や女性に対する犯罪をより大きく取り上げてダブルスタンダードを用いていると、一部の白人は見ている。大量のヒスパニックの継続的な流入は、白人のアングロープロテスタント文化の優位を脅かし。唯一の国語としての英語の地位も揺るがす。ホワイトーネイティビズムの動きは、こうしたトレンドに対して起こり得る当然の反応であり、景気の下降期や困難な時期にはきわめて発生しやすい。それが生じる可能性は、いくつかの要因によって高まっている。

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